ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:話題 > 歴史

◇5月より新元号令和のスタートです。



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4月もそろそろ終わりに近づいてきました。


平成も終わり新しい元号、令和(れいわ)のスタートです。


さて、どんな時代になるのか?ちょっと不安で楽しみでもありますね。


元号が変わるだけで、他になにか変わるわけではないのに、なんですかねこのワクワク感は、不思議な感じです。


少し元号について調べてみました。


◇元号の使用は現在では日本のみ


日本では和暦として西暦とともに大切にされてきた元号、ベトナムや中国などでも使われたことはあったようですが現在に至るまで元号を使い続けているのは世界中で日本のみとなっています。


日本書紀によると元号が使われ始めたのは645年の「大化」が始まりのようです。


◇日本の元号っていくつあった?


最初の元号と言われる「大化」から2017年の今日に至るまでの「平成」にはいくつ元号があったかご存知ですか?


応仁や享保など、社会科でとにかくたくさん習った記憶があります。


30?50?100以上?


答えはなんと「令和」を含め248個あるそうです。


凄い数ですね。


ただ、南北朝時代において南朝年号・北朝年号を加算した場合の総数なので、南朝を基準とした場合は232個が総数とされています。


元号の変わる基準が現在とは異なり天変地異や戦、占いなどで元号を変えるきっかけを得ていたために数年、または数ヶ月で元号が変わっていることでここまでの数となっています。


◇明治からの元号の由来


● 明治の由来


五経の一つである易経より「聖人南面して天下を聴き、『明』に嚮ひて『治』む」という言葉からきています。


「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められています。


● 大正の由来


大正も明治と同じく易経より「『大』亨は以って『正』天の道なり」という言葉が由来となっています。


「天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われる」というものです。


● 昭和の由来


昭和も五経の一つである書経から「百姓『昭』明・協『和』万邦」という言葉が由来となっています。


込められた意味は国民の平和と世界の共存・繁栄を願うものとなっています


● 平成の由来


史記からの「内『平』かに外『成』る」と書経からの「地『平』かに天『成』る」という言葉それぞれから平成と付けられました。


「内外、天地ともに平和が達成される」との意味で、元号が重ねられるたびに平和を尊いものとする意味が強まっているように感じられます。


● 令和の由来


万葉集の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」から名付けられました。


「令和」には人々が美しく心寄せ合う中で文化は花開くという意味が込められているようです。


令和なんだか、いい響きですね。


由来や込められた意味を汲み取って大切に時を過ごしていきたいですね。

平成31年度、歴史講座の記念すべき第1回は宮澤高広講師を迎えての「歴史探偵はSTDIOにいる!」です。



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「歴史探偵はSTDIOにいる!」はFMサルースの毎月第3土曜日12時10分オンエアされていた番組。


歴史探偵・高丸こと、宮澤高広が記事の見所や取材の裏話を語っていました。


今回は宮澤高広さんをお招きして、青葉区とその周辺地域の歴史、文化、風俗、宗教…その他、ありとあらゆる四方八方話を語り尽くしてもらいます。


ほんと、どんな話が出て来るか今からワクワクします。


ところで、ひろたりあん通信(青葉・都筑区の地域情報誌を読んでいたらこんな記事がありました。


長らくご愛読いただきました「地名推理ファイル」は今号をもって終了とさせてもらいます。


えっ、なんと毎回楽しみにしていた「地名推理ファイル」も終了なんですか?


なんで終了しちゃうの。なんだか寂しい限りです。


この際、なんで終了してしまうのかも宮澤さんに聞いてみましょうか。


では、歴史講座でみなさまにお会いできることを楽しみにお待ちしています。

39() 二子~溝の口 歴史ウォーク

講師:東原信行氏(大山街道ふるさと館 副館長)に行ってきました。

田園都市線 二子新地で930分集合し、スタートです。総勢40人結構な大人数となりました。


二子新地駅は、昭和52年まで「二子新地前」だったそうです。車掌さんの「次は~二子新地前~」という車内アナウンスが ふたごしんじまえ~(双子死んじまえ~)」と聞こえるということで 双子をもつ親御さんから抗議が殺到し、今の「二子新地」となったと言われています。


二子新地はかつて大山街道(矢倉沢往還。赤坂御門から渋谷、瀬田を経て二子で多摩川を渡り、足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道)の渡し場があった場所です。

多摩川の架橋は、江戸幕府防衛上の関係から東海道の主要街道といえども、永らく架橋が制限され、渡し船による渡河が続いていたそうです。

多摩川の土手での東原講師の説明

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土手をあがった近くにおかも岡本かの子の文学碑「誇り」

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彫刻の台座には「この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎」という制作者で長男の岡本太郎の銘が刻まれ、「としとしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」かの子の歌が刻まれていました。

平成の今の時代に物や金だけでない精神的な心の充実こそ必要ではないでしょうか。

わが「いのち」はいま華やいでいるだろうか磨いているだろうか。

と思っていると直ぐそばこんな看板が

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二子新地に豚子新地?()

二子新地に豚子新地?()

二子新地に豚子新地?()

えっ何?

トンカツ屋さんみたいです。

このネーミング面白い。

笑える。

やはり今は平成でした。(そろそろ終わりますけどね)


二子の川沿い(現在の二子神社~新二子橋)に芸者遊びができる、 置屋や割烹ができていたことから新地という俗名になりました。 

いわゆる遊郭的なものもあったようです。一大歓楽街でした。 

戦後のお客は橋を越えた映画の俳優(世田谷・砧の映画撮影所) が多かったようです。

二子新地の旅館

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まるで昔に戻ったようです。

今でも営業をされています。

二子新地から溝の口まで大山街道を 歩きました。昔から続く飯島商店大釜口上 この釜こそは、あのNHKテレビ大河ドラマ「黄金の日々」に出演した根津甚八ふんする石河五右衛門を釜ゆでにした代物だそうです。

蔵造りの店、田中屋呉服店。釘は一つも使用していないとか。

大山街道の昔のようすを残した跡があちこちにみられました。

やがて溝口神社へ

溝口神社

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本日の散策はいろいろありすぎて語りきれませんが、溝の口の駅のそばに大山街道の大きな看板がありました。

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ほぼそれと同じコースでしたので参加されたみなさんで本日の歴史散策を振り返られたいかたは振り返ってみて下さい。

本日、参加していただいたみなさま参加していただいてありがとうございました。それから丁寧に説明していただいた東原講師、ほんとうにありがとうございました。

3時間の歴史散策。二子新地から溝の口までの大山街道にはさまざまな歴史が刻まれていました。それと近代の文学や物語の歴史が多く残されていました。

二子新地から溝の口までの歴史散策はとても楽しい思い出となりました。参加されなかったみなさまも二子新地から溝の口までの歴史散策をされてみてはいかがですか。

本日の講師、東原信行氏の大山街道ふるさと館のホームページをご案内します。

大山街道ふるさと館

http://furusatokan.web5.jp/


エンジョイ荏田塾たけのこクラブ

https://eda-eetc.com/



今回の訴訟は「原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、 上記のような(強制動員への)慰謝料を請求している」(判決文)のであり、日本による統治を「不法」としている韓国では、1965年の請求権協定に含まれていない慰謝料を請求できる、という論理構成になっている。



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日韓併合について、韓国では「違法であった」と主張するのが一般的であり、「合法であった」と主張する側との間に論争が起きており、学会では「日韓併合合法不法論争」と呼ばれている。


今回の韓国の最高裁の判決の根拠は日韓併合が違法であるから慰謝料を支払えと言うことらしい。


言い変えれば日韓併合が合法であれば慰謝料を支払う全く必要性などないと言うことである。


◼︎ 日韓国交正常化に於ける日韓併合合法不法の争い


日韓国交正常化交渉の場に日韓併合合法不法論争が行われなかったかと言うとそうではない。


1965年の日韓国交正常化の際も激しく対立したが、合法・不法の結論は出さず、最終的に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)において「もはや無効であることが確認される」との表現で国交正常化にこぎつけた経緯がある。


結局、国と国との話し合いでは日韓併合合法不法論争は結論を出さずに未来志向で国交正常化が実現されたのです。


これが日本と韓国に於いての基本合意であり、日韓併合の違法性は争わないと言うのが両国の合意であった。


◼︎ 世界に於ける日韓併合合法不法論争


しかし、日韓基本条約が成立した後も、韓国併合に関しては争わないと言いながら韓国は執拗に韓国併合は違法であると言い続けた。


韓国併合の違法を世界に訴えて韓国併合再検討国際会議まで開かれたのだった。


第1回韓国併合再検討国際会議が2001年1月にハワイにて開催。


日米韓の学者が参加。


第2回韓国併合再検討国際会議が2001年4月に東京多摩市にて開催。


第3回韓国併合再検討国際会議が2001年11月にバーバード大学にて開催されていた。


第3回は第1回、第2回を引き継ぎ、締めくくりの役割を持つものとして開催されたものである。


日韓米のほか、英独の学者も加え結論を出す総合学術会議だった。


日本側からは5人が参加したが、海野福寿明治大学教授の「不当だが合法」論や笹川紀勝国際基督教大学教授の不法論など見解が分かれていた。


韓国側は4人が参加し、「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に不法論を主導している李泰鎭ソウル大学教授を始め、全員が不法論で会議をリードしようとした。


しかし日本の原田環広島女子大学教授は併合条約に先立ち、大日本帝国が大韓帝国を保護国にした日韓保護条約 (第二次日韓協約)について高宗皇帝は条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介した。


併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が英国の学者らから出された。


アンソニー・キャティダービー大学教授はそもそも当時、国際法といえるものが存在していたかどうかさえ疑わしいとし、特定の条約の合法、違法を判断するに足る法を発見するのは困難であると主張。


国際法の権威ジェームズ・クロフォード、ケンブリッジ大学教授は当時の国際慣行法からすると英米を始めとする列強に認められている以上、仮に手続きにどのように大きな瑕疵があろうとも「無効」ということはできないと指摘した。


韓国の言う日韓併合について違法であるとする国際的なコンセンサスは得られなかった。


結局、2001年の韓国併合国際に於いても韓国併合は違法であったと言うことにはならなかったのである。


これが今までの国際的な流れである。


しかし、韓国の中の流れは全く違う方向にながれてしまい、国際会議でも違法とは言えないとの結論に達したものを韓国国内は韓国併合は違法であると執着し続けているのである。


国際的に韓国併合が違法とは言えないとなったのにもかかわらず、韓国国内で一方的に違法と言い、最高裁判所にて韓国併合が違法であると結論ずけてしまうことが問題なのである。


◼︎ 国で決めたものを国内で違うと言って良いのか?


韓国政府が日韓併合合法不法論争は結論を出さずに日韓正常化交渉を樹立したわけであるが、現在、韓国内では日韓併合を違法だと勝手に決めて日本の企業に慰謝料を支払えと最高裁で判決まで出している。


これで良いのか?


韓国政府が日韓併合合法不法論争は争わないと言った条約を国内では一方的に違法と決めつけて日本企業に対して慰謝料請求の判決までしている。


これは明らかに国際条約違反である。


まずは韓国政府は条約を守っていただたい。


日韓併合合法不法論争をお互いにもはや争そわない無効であると言うことで成立した条約なのだから、韓国国内で一方的に違法であると最高裁で結論づけたこと自体がもはや条約違反にほかならないのではないだろうか。


韓国政府が日韓併合が違法であると言っていないとか日本政府ではなく日本企業に対して請求しているからいいとか、そう言う問題ではないだろう。


韓国が日韓併合の違法性主張すること自体が既に条約に違反している行為ではないだろうか。


韓国は良く歴史を振り返れと言う。


君たちこそ歴史を振り返って日本と韓国の先人が知恵を絞りだしてお互いに歴史を築いていったことをもっと考えるべきではないのだろうか。





2011年NHK大河ドラマ大奥シリーズ第三弾となる「お江~姫たちの戦国~」が放送されて7年経ちます。



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「お江 ( おごう )」役は上野樹里でした。その時の「お江」の姿は今でも浮かんできますね。


織田信長の姉、お市の方と浅井長政の子供がお江です。


姉が淀と初。


浅井長政の3姉妹の末っ子「お江」


父は織田信長に殺され、政略結婚を繰り返し、最初の夫「佐治一成(信長の甥)」、次の夫「豊臣秀勝(太閤秀吉の甥)」、最後の夫「徳川秀忠(征夷大将軍)」と結婚を繰り返すだびにランクアップした歴史上類いを見ない女性「お江」。


歴史に翻弄され続けた彼女はどんな気持ちで生きてきたのか?


この「お江」と横浜市は不思議な関係がありました。


横浜市青葉区のあざみ野周辺、川和と荏田村全域、そして池辺、東方、茅ヶ崎村の一部が「お江」姫の化粧領( 婚姻される際に与えられた土地)だったのです。



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11月11日( 土 )13時より地元あざみ野と「お江」姫との関わりを郷土史家横溝潔が熱く語ります。


あなたも歴史の一部に触れてみませんか。


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