NHK連続ドラマ『エール』福島の実家へ鉄男を連れて帰った裕一は、なぜか先に家に居た佐藤久志に驚きました。古山裕一の行くところ久志あり、不思議です。
そんな久志は、裕一の母親のまさに抜かりなくどら焼きの手土産を持参しました。
どら焼きのお土産は大きな箱ですね。
佐藤久志
「ここのどら焼きあんこがとてもおいしいんです」
どこのどら焼きでしょうか。
昭和の初期のどら焼きと言えば上野の「うさぎや」が真っ先に思い浮かびます。大正2年創業で、100年以上の歴史を持つ老舗の店です。餡のみずみずしさやすっきりとした甘み、皮の柔らか過ぎないふんわり感など、素朴ながら全てのあんばいが丁度良いのです。
たぶん「うさぎや」のどら焼きではないかと思いまはす。
■池波正太郎の「うさぎや」のどら焼きの話
作家、池波正太郎の「うさぎや」のどら焼きでその当時の面白い話しがあります。
少年の頃から勤めていた店の主人が、池波正太郎の家に近い「うさぎや」にどらやきを帰りがけに買って来いと頼むことが毎月に二回ほどあったそうです。翌日、主人のところにそれを持って行くと、その中から二個を半紙に包んで、ご褒美にくれたとのことでした。
戦争がひどくなると砂糖が統制されると、「うさぎや」のどらやきも一日に販売出来る数に制限があり、早朝から行列に並んで買いに行ったらしいです。戦時中のどらやきは、とても貴重なものでした。大人になってからも遣いに行った池波正太郎は、褒美をくれるのを惜しそうにする主人の顔を見たさに、毎回どらやき二個をもらっていたというのです。
■戦争中はスイーツが手に入り難い
1937年(昭和12年)に盧溝橋事件による日中戦争開始をきっかけに日本は経済を本格的に引き締め始め、物の生産、流通、消費などの経済活動において、軍による需要が優先されるようになりました。
また、時が経つにつれて、戦争が日本にとって不利になってきたことにより、物が不足するようになってきました。
この動きにスイーツも影響を受けました。
政府は、軍による利用を優先させるために、物の生産、流通、消費などを制限する政策を相次いで打ち出しました。
盧溝橋事件と同じ年の1937年輸出入品等臨時措置法が施行され、輸出入の制限を行い、それを通じて物の生産、流通、消費などを制限する幅広い権限が政府に与えられました。
その翌年である1938年(昭和13年)、国家総動員法が施行され、人、物を、戦争遂行のために総動員することを目的に、物の流れ、貿易、価格など、経済のあらゆる分野をコントロールする権限を政府が持つようになりました。
菓子の主原料である砂糖と小麦を例にとると、1937年10月に設置され、経済分野のコントロールに中心的な役割を果たしてきた企画院の主導の下、1940年(昭和15年)5月になされた閣議決定「消費規正に関する件」に基づき、翌月から配給制が導入されました。
古関裕而「暁に祈る」映画が封切られたのが1940年(昭和15年)です。
戦時中のどら焼きが貴重で手に入らない中、佐藤久志はお土産にどら焼きを持参するとは流石はプリンス久志です。