ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山裕一 窪田正孝 古関裕而

 NHK連続ドラマ『エール』は最終回が終わってしまった。なんだろう、なんか忘れものをしたような。『エール』ロスか?

 しかし、ドラマ『エール』は今での朝ドラとは何かが違っていた。

 古関裕而夫婦の物語をモデルにしたフィクションどらまなのだが、史実とは全く違っていた。

 なんせ登場人物もモデルとは違う。そう似ていなかった。

 古関裕而はお酒も飲まない、いつも物静かな落ち着きのある人物だった。古関裕而と俳優の窪田正孝とはタイプが違っていた。

 友人のプリンス久志は山崎郁三郎とモデルにした伊藤久男は豪放磊落なタイプであり、繊細な山崎郁三郎とは全く違っていた。

 ドラマを史実に合わせようとしていないのが今回の『エール』だった。

 ドラマと史実が似ていたのは大筋と代表曲の名前ぐらいのものだ。しかも作曲された順番やヒットした歌手が違ったり、もういい加減。全くいい加減なドラマ。

 しかし、面白かった。笑いあり、涙あり感動あり。さらに音楽が良かった。古関裕而の作曲した曲だから当然なのかも。それを歌う俳優陣の歌が素晴らしい。

 山崎郁三郎、二階堂ふみ、柴咲コウ、薬師丸ひろ子、井上希美等の俳優陣の歌がドラマの展開、展開で聞けて心地良かった。

 ドラマというのは、フィクションですから、史実と違っていい加減でもいいのか。

 ジェームス三木さんは、「脚本家の才能は嘘つきだということ」と述べていた。

 上手な嘘を作るのがフィクションの世界、ドラマの世界ではあり「ドラマは嘘つき」だとも言っている。

なるほど、ドラマは嘘つきなのか。

そう言えば、『エール』に出て来た池田二郎モデルの菊田一夫も脚本家でした。

 彼の作品「鐘の鳴る丘」も「君の名は」も創作。言いかえれば嘘のかたまりです。

 ただ嘘だからでたらめを言えばいいというものでもありません。みんなが納得するものでなければ。

 「大きな嘘はいいが小さな嘘はダメ」細部に本当のこと、ちゃんとしたものを入れることで、大きな嘘が真実になるのです。

 最低の常識や知識、教養を持ち合わせていない人の嘘は、すぐにばれてしまいます。

 ドラマ『エール』はどうでしたか。かなり戦争のシーンもリアルだっし、あちこちとちゃんとした真実が入っていました。嘘の部分を昭和の映像を流して真実ぽくしていた。

嘘だとわかっていてもドラマに入ってしまった。

 また、主人公、古山裕一役、窪田正孝と音役、二階堂ふみがしっかりと安定した演技をしていた。そして周りの俳優陣も、父親唐沢寿明、母親薬師丸ひろ子、姉松井玲奈みんな存在感があり、リアルな家族を描いてみせた。

 古山家の隣の喫茶店バンブーの野間口徹と仲里依紗、こんな喫茶店ないなと思いながらも、あれば楽しいだろうなと思ってしまった。

 さらに、友人のプリンス久志山崎郁三郎と鉄男の中村蒼、ミュージックティチャー御手洗の古山雄太。ドラマの日常生活で格好つけて歌ったり踊ったりした。こんなの普通はあり得ない。ただ、さまになっていたのだ。こんな友人や知人がいたらいいなと思ってしまった。

 結局、脚本家によって創作されたドラマにいつのまにか魅せられていたのです。

 NHK連続ドラマ『エール』は史実の古関裕而夫婦の物語とは全く違った音楽家の世界を描いたドラマとしてお茶の間のテレビドラマを観ている人々を夢中にさせた。

 菊田一夫から続く涙あり、笑いあり感動ありの脚本ドラマとしては良い作品だったと最後は納得してしままった。

 これでNHK連続ドラマ『エール』も見ることが出来なくなるかと思うと一抹の寂しさを感じざるを得ない。


 NHK連続ドラマ『エール』では最終回が総出演のカーテンコール。古関裕而夫婦の物語を締め括るのに一番相応しい終わり方になりました。

 それにしても朝の8時からの15分間だけでしたが、その時間内に8曲を凝縮したのは凄かった。

 たった8曲だけなんですが、なんだか古関裕而の生きた昭和の時代が再現されたような気がしました。

 もう一度、15分の番組の歌を振り返ってみたいと思います。


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「エール」コンサート曲目

●1番「とんがり帽子」

ドラマ役:ミュージックティチャー、藤丸、夏目千鶴子

俳優:古川雄大、井上希美、小南満

佑子、子役

1947(昭和22)NHK連続ドラマ「鐘が鳴る丘」主題歌。♪緑の丘の赤い屋根♪とんがり帽子の時計台♪とても可愛いらしい詩、明るいメロディは1度聞いたら耳から離れられませんでした。

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手:川田正子

●2番「モスラの歌」

ドラマ役:藤丸、夏目千鶴子

俳優:井上希美、小南満佑子

1961(昭和36)7月東宝映画「モスラ」の劇中歌。ゴジラと対決するモスラ。島の守り神を讃え、双子の小人(ザ・ピーナッツ)が歌ってた。モスラやモスラ!忘れられない曲でした。

作詞:本多 猪四郎作曲:古関 裕而、歌手:ザ・ピーナッツ

●3番「福島行進曲」

ドラマ役:ミュージックティチャー

俳優:古川雄大

1931(昭和6)古関裕而のデビュー作品、レコードはヒットせず。福島のご当地ソング。ドラマの古山裕一と鉄男が二人が初めて作った作品でした。

作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、歌手:川野三津代

●4番「船頭可愛や」

ドラマ役:佐藤久志、村野鉄男

俳優:山崎郁三郎、ギター・中村蒼

1935(昭和10)古関裕而の大ヒット曲、音丸(藤丸)が歌って全国的に歌われました。

作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而、歌手:藤丸

●5番「フランチェスカの鐘」

ドラマ役:藤堂先生の妻

俳優:堀内敬子

1948(昭和23)歌手、ニ葉あき子が歌って大ヒット。フランチェスカの鐘と聞いただけでなんだかロマンチックな感じですが、どこの教会なんでしょうか。菊田一夫は特定の教会はなかったと語っています。彼のイメージ作品でしょうか。

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手:ニ葉あき子

●6番「イヨマンテの夜」

ドラマ役:馬具職人、岩城

俳優:吉原光夫

1950(昭和25)1月のレコード。楽曲は難しく売れないと思われていたが大ヒット。歌手、伊藤久男の代表作。「のど自慢」の男性がこの曲ばかりを歌うので審査員も困ったとか

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手、伊藤久男

●7番「高原列車は行く」

ドラマ役:音の母、光子

俳優:薬師丸ひろ子

1952(昭和27)レコード。日本コロンビア「あなたが選んだ古関メロディ30」の一位に輝いた曲です。♪汽車の窓からハンケチ降れば♪牧場の乙女が花束投げる♪ほんと、どこまでも、どこまでも明るいメロディです。風景が見えるようです。

●8番「栄冠は君に輝く」

藤堂先生と佐藤久志

ドラマ役:森山直太朗、山崎郁三郎

1948(昭和23)夏の全国高等学校野球選手権大会の歌として発表されました。♪雲は湧き光溢れて♪天高く純白の球♪この曲が流れるだけで暑い夏と高校生の熱き闘いを思い出してしまいます。

●9番「長崎の鐘」

ドラマ役:古山音と裕一他

俳優:二階堂ふみ、指揮・窪田正孝

1949(昭和24)71日コロンビアからレコードが販売。長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌として多くの人々の共感を呼び大ヒットした。♪こよなく晴れた青空を♪悲しと思う切なさよ♪長崎の修学旅行のバスで何度も歌った誰もが忘れない曲です。

終わりに

 NHK連続ドラマ『エール』の出演者が古関裕而作品のコンサートをするなんて夢にも思いませんでした。

 どの出演者も歌がうまい。とくに、馬具職人役の吉原光夫さんの「イヨマンテの夜」の迫力。声量溢れる声と歌唱力には恐れ入りました。

 他のどんな歌番組よりも楽しめたと思います。

 次はNHK連続ドラマ『エール』総集編の別枠として1時間の古関裕而作品コンサートをやっていただきたいと思います。

 NHK連続ドラマ『エール』では最終会はNHKホールにてのコンサート。

 司会を務めるのは、主人公・古山裕一を演じた窪田正孝。窪田は、「『エール』は、古関裕而さんがいなければ生まれなかったことも改めて感じましたし、皆さんのパフォーマンスを特等席で聞かせてもらって、夢のような時間でした」と語っています。

 音と古山裕一のドラマ『エール』の最終回です。エンディングとして古関裕而の作曲した音楽の代表曲のメロディリレーです。

「エール」コンサート曲目

1番「とんがり帽子」

ミュージックティチャー、藤丸、夏目千鶴子

古川雄大、井上希美、小南満佑子、子役

2番「モスラの歌」

藤丸、夏目千鶴子

井上希美、小南満佑子

3番福島行進曲

ミュージックティチャー

古川雄大

4

「船頭可愛や」

佐藤久志

山崎郁三郎

ギター・中村蒼

5番「フランチェスカの鐘」

堀内敬子

6

「イヨマンテの夜」

馬具職人、岩城

吉原光夫

7

「高原列車は行く」

音の母、光子

薬師丸ひろ子

8

「栄冠は君に輝く」

藤堂先生と佐藤久志

森山直太朗、山崎郁三郎

9番「長崎の鐘」

音とみんな

二階堂ふみ他全員

古山裕一

指揮・窪田正孝

 なんだかとても楽しい音楽会になりそうです。

 古山裕一のモデル古関裕而さんの最後のお話しをします。

古関裕而死去

 古関裕而は平成元年(1989)年8月18日に亡くなっています。

 8月20日に通夜、21日に告別式が行われいます。地元、自宅近くの代田円乗院。

 葬儀は音楽葬で執り行われ、慶應・早稲田双方の応援団が参加。両校が贈られた応援歌を歌う中、ご遺体は早稲田と慶応の校旗が掲げられて柩が見送られたそうです。

 慶應、早稲田の校歌を古関裕而は作って、どれだけ多くの人々に歌われその校歌が親しまれたのかがわかるエピソードです。

 NHK連続ドラマ『エール』途中コロナで中断などありましたが、本当に楽しく観させて頂きました。ありがとうございます。


 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一は病に伏す妻、音(二階堂ふみさん)の療養のため、東京を離れて静かな生活を送っていた。

 ドラマの中の音さんは明るくて元気でいつも主人公を支えてくれていました。声楽を断念しなければならなかったのは残念でしたが、古山にとってはなくてはならない存在でした。

 音のモデル古関裕而さんの奥さんもご主人を支えてくれる素敵な女性でした。しかも才能は多彩で、パワフルな女性でした。

古関金子の多彩な才能

 古関裕而の金子さんの才能は音楽だけではなく、詩も書いており、1958(昭和33年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。1960(昭和40)に「にあいなめ」の同人となり、1964(昭和44)に詩集「極光」を発売しています。

 また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになっていました。

 古関金子さんは1971(昭和46年)に油絵の裸婦像『揺炎』が新槐樹社展(東京都美術館)に入選していました。

 音楽の才能もあり、文学や絵画の才能もあり、株の世界では「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていました。古関金子さんもあちこちに大活躍をされていました。

 まさに、天下無敵のスーパーレディでした。ほんとドラマの音以上の人物だったようです。

 この頃から古関裕而がフジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員として司会者の萩本欽一と一緒にお茶の間のテレビに登場するようになりました。1972(昭和47)。この番組には古関は1984624日降板するまで勤めていました。

 しかし、古関金子はご主人や家族を支え、パワフルな活動を続けた古関金子さんでしたが、やはり病には勝てなかったようです。

 1976(昭和51)に乳がんが判明し日本赤十字医療センター、東京大学医学部附属病院、国立ガンセンターに2度の手術を受け、闘病生活を開始します。

古関裕而、初の福島名誉会員

 1979(昭和54)福島市出身であり、昭和を代表する作曲家である古関裕而が、作曲生活50周年を迎えるとともに、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」など、誰もが一度は耳にしたことのある、数々の名曲を世に送り、郷土福島を広く紹介した功績が認められ、初の名誉市民として推戴されました。

 古関裕而と妻金子は二人で仲良く推戴式に参加しています。この時の金子さんは和服姿でした。

 故郷の福島を心の中から愛してやまなかった古関裕而、ほんとうに嬉しくてたまらなかったようです。

 古関裕而は「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。」と述べています。

 それから、40年以上が経ちますが、今をもっても福島市名誉市民は古関ただ一人であり、それだけ古関が偉大な存在であることがうかがい知れます。

古関金子死去

 1980(昭和55)6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。

古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり

 1980(昭和55年)7月に死去し68歳だった。

 夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。

終わりに

 フジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員とし古関裕而先生の顔はいつもにこにことテレビに映っていました。ああ、この人はいつも幸せなんだなと思っていました。

 しかし、テレビの番組に出ておられる間、奥さんの金子さんの病気が判明し入院し、最後はお亡くなりになったたいへんな時期だったようです。

 古関裕而のもとに開会式用の曲の依頼があったのは、昭和39年2月。オリンピック組織委員会とNHKからの「日本的なもの」という注文に対して、古関は雅楽や民謡を取り入れることを考えた。

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 「日本的なもの」とは何だろうか。

 戦後、アメリカの占領になり、今までの日本はどんどんと変わってきた。すなわち、日本的なものを破壊することで西洋的な発展をしてきた。古い日本から新しい日本に生まれ変わろうとしてる時代でした。

 日本に於いて普遍的なものはなにか。たどり着いた結論が日本国歌「君が代」でした。約2600年の歴史を持つ日本の延々と続く日本人の底にあるものとして選んだのでした。

 しかし、そこにはいろんな葛藤もあったのも事実です。国家のため召集された人々が戦争で多くの犠牲となったのですから、しかし戦争で傷ついた人たちを励まし、勇気づける曲を作ることが、自分の責務だと思ったのでした。東京オリンピックマーチの演奏の一番最後に 君が代のメロディーを挿入したのでした。

 曲の最後に「君が代」の旋律が挿入されています。漫然と聞いていると気付かないかもしれないですが、「オリンピック・マーチ」を聞く時は、注意深く耳を澄ませてみて下さい。

 この手法は戦前のスポーツ音楽の雄、山田耕筰が、昭和7年に開催されたロサンゼルスオリンピックのために作曲した、派遣選手への応援歌『走れ大地を』で取り入れたテクニックでもありました。

 山田耕筰に憧れて作曲家になり、自分のペンネームの中に昭和天皇の名前「裕」を入れ、日本国のため日本国民のために全ての力を出して作曲したのでした。

 そうして、作曲が完成すると古関裕而は大変興奮し、そして、苦心して曲ができあがった時、「会心の作だ」と言ったそうです。

 1963年東京オリンピックはまさに日本の生まれ変わった姿を全世界にアピールする絶好の場面となったのです。

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東京オリンピックの開催宣言

安川第ゴロ東京オリンピック組織委員会会長挨拶

待望久しい第18回オリンピック競技大会が本日より15日間にわたり、開催されることになりましたことは誠に喜ばしい限りであります。あたかも本年は近代オリンピック復興70周年に当たりますのでこれを記念し皆様と共に近代オリンピックの父、クーベルタン男爵のありし日の声を傾聴して氏の偉業を追想したいと存じます。・・(ここでピエール・ド・クーベルタン男爵のメッセージを録音したテープが流れる)・・オリンピック東京大会はアジアで開催される初めての大会でありますが、幸いこれまでにない多数の選手団の参加をみましたことは誠にご同慶にたえない次第であります。願わくはオリンピック精神に則り、正々堂々たる競技が展開されることを期待してやみません。最後にここにおられる国際オリンピック委員会のアベリー・ブランデージ会長から天皇陛下に第18回オリンピック競技大会の開会宣言を賜りますようお願いしていただきたく、ご依頼申し上げます。

アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長挨拶

ワタクシハ 1896ネン ピエール・ド・クーベルタン ダンシャク  ヨッテフッカツサレタ キンダイオリンピック  ダイ18カイ キョウギタイカイ  カイカイセンゲン ココニツツシンデ テンノウヘイカ  オネガイモウシアゲマス

(私は1896年ピエール・ド・クーベルタン男爵によって復活された近代オリンピックの第18回競技大会の開会宣言をここに謹んで天皇陛下にお願い申し上げます。)

昭和天皇開会宣言(午後258分)。

18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します。

終わりに

 NHK連続ドラマ『エール』では、主人公古山裕一が「東京オリンピックマーチ」を作曲するところまできました。今回の朝ドラもそろそろ終わりとなってきました。

最後に「東京オリンピックマーチ」の作曲で来年の東京オリンピックを迎えることになるなんてNHKさんもなかなかいきなことをやるもんですね。

 日本では寒くなってきて、コロナが増えていますが、あとは来年無事に東京オリンピックを迎えられることを祈るばかりです。

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