ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > マーチン・ショウ

昭和4年(1929年)世界恐慌があって、それから世界は不況が続きます。


昭和7年(1932年)五一五事件で犬養毅首相が殺害される。


時代は昭和9年(1934年)の出来事です。

まだ第二次世界大戦がはじまる前のできごとです。


昭和91月 東京日比谷に地上6階、地下1階、収容人員2810名という【東京宝塚劇場】がオープン。


こけら落としは月組公演で、レビューは《花詩集》が演じられますが、途中電動舞台装置の故障などで30分公演が中断するハプニングも起こります。


翌日からは一般公開もされ、当時はまだ【宝塚少女歌劇】と呼ばれていたこの時の公演は大成功を収めます。


2 有楽町に日比谷映画劇場が開場します。

50銭均一の洋画邦画を上映する劇場で人気となります。


3月 満州国で帝政が実施され、 愛新覺羅溥儀が皇帝に即位します。


戦争のきな臭い匂いはしていましたが、まだまだ平和な日本。


庶民は娯楽を楽しむ余裕はあります。


吉本興業によってマーカス・ショウが日本に招聘されます。


その当時のマーカス・ショウの演出振付主任レオン・ミラーとのインタビュー記事が新聞に掲載されています。


■ 朝日新聞縮刷版 昭和9年3月


マーカス・ショウ 演出のレオン・ミラーインタビュー


「笑いが足りない日本人」


日劇で大ヒットを飛ばしたマーカス・ショウの、「演出振付主任」レオン・ミラーにインタビューしています。


記者


「欧米では既にレビューは行き詰ったと言われているらしいですが事実ですか?」


レオン・ミラー


「そんなことはありません。それは皮相的な見方です。成程興行を休んでいる団体が大分おり、劇場のいりの悪くなったことは事実ですが、それはヒドイ不景気のためで、けっしてレビューが飽きられたためではありません。オペラなんかの方がモットひどい打撃を受けていますよ」


記者

「近頃は歌や踊りをふんだんに取いれたレビュー映画やトーキー・オペレッタが盛んに作られていますが、レビューがこれらに肉迫される事はありませんか」


レオン・ミラー


「大丈夫です。ラヂオでニュースを聞いても尚新聞を見なければ満足できないのと同じです。アメリカではむしろトーキーの方が行詰まって、一般に飽きられかかっています」


記者

「レビューとショウとはどう違いますか」


レオン・ミラー


「厳密にいえばショウは全体を通じて一貫した筋を持ったものであり、レビューとは一幕一幕が個々に独立したものをいいます。然し普通こんなウルサイ区別はつけませんね」


「レビューに必要な要素は? それからレビュー・ガールとしての必要条件は?」


レオン・ミラー


「レビューには歌、踊り、笑い。女優の生命はまず第一に健全な肉体です。それから歌も踊りも、殊にタップとトウ・ダンスができるという事も」


記者


「レビューからエロティシズムを取り去ったら、生命がなくなりはしませんか」


レオン・ミラー


「エロティシズムは絶対必要条件ではありません。あれは故意に作るものでなく自然に生れるものです」


記者

「全裸体に銀粉を塗る『銀の女神』がエロだからといって大分うるさくいわれたそうですね」


レオン・ミラー


「あれはエロではありませんよ。立派な芸術ですよ。裸体の彫刻と同じ事です。どこの国に乳覆いをした彫刻があるでのでしょう。シカゴの市長はこれをとても激賞したものですよ。先日宝塚のレビューを見ましたが、あれにはわざとらしいエロティシズムはないではありませんか。然もその素晴らしさに私は驚きましたよ。衣装、舞台装置、証明、いずれも全く素敵ですよ。然し笑いが少い様ですね。もっとギャグを入れたら良いと思います」


記者


「日本のレビュー・ガールは体が貧弱だと思いませんか」


レオン・ミラー


「いや、あの人たちは学校の生徒で修行中の者だというぢゃありませんか。ああやって踊っているうちに次第に立派なものになりますよ。


記者


「女が男装をして出て来るのを見てどう思いましたか?」


レオン・ミラー


「いや実はそれに感心したのです。女ばかりでレビューが出来るという事を日本へ来てはじめて知って感心しましたよ。男の様な声をだしてなかなかうまくやっていますね。あれは全く素晴らしい思いつきですよ。他の国にはありませんからね」


記者
 

「そんなに気に入ったのなら、あなたのレビュー団でも一つやってみたらどうです」


「一度か二度やってみるのはいいでしょう。だけどあんまり続けると飽きられるでしょうな。結局不自然ですから。それに外国の女の男装は珍しくて面白いけれど、自分の国の女が男の風をするのはあんまり有難くありませんから」


インタビュー記事はなかなか当時の状況がわかり面白い内容になっています。


マーカス・ショウは東京の日比谷の日劇で開催されていましたから、レオン・ミラーさんも宝塚歌劇団の舞台を観たようです。


彼のコメント


「宝塚のレビューを見ましたが、あれにはわざとらしいエロティシズムはないではありませんか。然もその素晴らしさに私は驚きましたよ。衣装、舞台装置、証明、いずれも全く素敵ですよ。然し笑いが少い様ですね。もっとギャグを入れたら良いと思います」


なるほど宝塚歌劇団にエロチシズムに笑いか?と笑ってしまいました。


いろんな見方があって面白いですね。


小林一三の「清く 正しく 美しく」は日本にだけ通じることなのかも知れませんね。

NHK連続ドラマ「わろてんか」北村隼也がアメリカで見て憧れていたのが「マーチン・ショウ」の企画でした。


史実では吉本興業が「マーチン・ショウ」ではなく「マーカス・ショウ」を1934年(昭和9年)アメリカより招聘しています。


1934 昭和9年の日本は日中戦争前、軍部の力は強くなっていますが、まだまだ平和な社会でした。


昭和9年には私たちの良く知っているものが次々と誕生した年でもありました。


ちょっと昭和9年を覗いてみましょう。


■ 1934 昭和9年の出来事


1月 東京日比谷に地上6階、地下1階、収容人員2810名という【東京宝塚劇場】がオープンしました。


こけら落としは月組公演で、レビューは《花詩集》が演じられますが、途中電動舞台装置の故障などで30分公演が中断するハプニングも起こります。


翌日からは一般公開もされ、当時はまだ【宝塚少女歌劇】と呼ばれていたこの時の公演は大成功を収めます。


2 有楽町に日比谷映画劇場が開場します。

50銭均一の洋画邦画を上映する劇場で人気となります。


3月 満州国で帝政が実施され、 愛新覺羅溥儀が皇帝に即位します。


同時に皇帝即位を71カ国に通告します。


アメリカから初来日したマーカス・ショー劇団の公演が日本劇場にて開催されます。


警視庁の検閲によって胸やへそなど隠される事になりますが、予想以上の大入りとなります。


地下鉄【銀座駅】が開業し、これによって浅草~銀座が14分半で結ばれます。


4月渋谷駅前に【ハチ公】の銅像が建てられ、その除幕式がハチ公も参加して盛大に行われました。


新橋演舞場で特選漫才大会が開かれます。

吉本興業の東京進出興行で、横山エンタツ、花菱アチャコらが【しゃべくり漫才】を披露します。


5月 フランス映画【にんじん】が封切られます。

前年には翻訳本がベストセラーとなったこともあって空前のヒットとなります。


6 国産自動車を製造していた【ダット自動車商会】が、合併などを経て【日産自動車】と改称します。


銀行員の初任給が70円という時代に自動車1台が1350円という価格で、一般的にはまだまだ手の届かないものでしたが、【日産自動車】は以降大量生産体制に入り、少しずつ自動車が受け入れられるようになっていきます。


7 【朝日世界ニュース】が毎週上映されることになります。


テレビのない時代としては、映画館でニュース映画が上映されていましたが、この頃から新聞社製作のニュース映画の上映が増え、この後も【読売ニュース】や【東日大毎国際ニュース】などが上映されます。


この月に明治製菓から【クリームキャラメル】が発売されます。


8月 東洋一と言われる同潤会江戸川アパートが新宿区小川町に完成します。


過去10年の経験を基にエレベーターや集中暖房、ラジオや電話等を完備し、娯楽室や共同浴場なども備え、中には部屋にガス風呂が備えた部屋もありました。


現在のマンション等が、この江戸川アパートを基本にして作られたとも言われ、当時としては贅をつくしたアパートで、政治家や作家、女優なども入居していました。


9月 三菱電機は名古屋にオール電化のモデルハウス【電気の家】を建て公開します。


10月 この頃人気となった登山やハイキングの影響で、新宿駅は30万人の乗降客となります。


 11月東京渋谷に、ターミナルデパートの東横百貨店(現東急東横店)がオープンします。

地上7階地1階で大阪の阪急と同じようにターミナルデパートとしてのオープンです。


ベーブルースやルイゲーリックら米大リーグの選抜チームが来日し、銀座でのパレードは、交通マヒが起こるぐらいの人出となります。


日本の選抜チームとの対戦成績は、アメリカ大リーグチームの1818勝という圧倒的な強さでしたが、この来日がきっかけで、日本で初めてのプロ野球が誕生する事になります。

尚、この一連の試合の中で唯一相手打線を1点に抑えたのが、当時17歳の沢村栄治投手です。


12月日本で初めてとなる【大日本東京野球倶楽部(現読売巨人軍)】が発足します。 


森永製菓はゆであずきの缶詰を生産します。

35銭)


それまでは生産困難と言われていましたが、缶詰化に成功した事で、慰問袋や戦地での食料として大量生産されます。


■ 昭和9年と言う時代はどうでしたか?


今から84年前、東京宝塚劇場や日比谷劇場がオープンしたり、東横百貨店やハチ公、地下鉄の銀座線が日本での初めての地下鉄として登場しています。


しかもプロ野球が出来たのもこ年なんです。

 

最後に私の好きなゆであずきの缶詰まで登場した年なんです。


なんとなく平和な日本が想像できます。


これ以降だんだんと日本は戦時色が強くなっていきます。


こんな時代だからこそ吉本興業の「マーカス・ショウ」の興業は大成功となったのです。


ほんと平和って大切だなと思います。


人々が笑って楽しめるのは平和な世の中だからこそです。


笑いと平和をいつまでも


You'll find that life is still worth while, if you just smile.


もしも君がほほ笑んだなら人生は生きる価値がまだまだあるってことがわかるだろう


By  チャップリン


Smileより一節


NHK連続ドラマ「わろてんか」では北村隼也がアメリカで見て憧れていたのが「マーチン・ショウ」の企画だったのです。


伊能に、その企画に乗らないかといいますが冷静に伊能は数ある企画のうちの一つにすぎないと判断します。

 

しかし、隼也は「マーチン・ショウ」をあきらめきれずに伊能に内緒でこっそり会いに行きます。


そこで、出会った通訳の加納つばき(水上京香)と隼也は「マーチン・ショウ」の話で意気投合します。


これさドラマのワンシーンです。


史実モデルでは吉本興業は「マーチン・ショウ」ではなく「マーカス・ショウ」をアメリカより呼び入れて居ます。


実際に企画・実行したのは吉本せいの弟、林弘高でした。


マーカス・ショウ


吉本興業の社史によれば


1934年( 昭和9 )211 吉本せいが各所への寄付の功績などで、大阪府から表彰される。


3 アメリカよりボードビルショー『マーカス・ショウ』を招聘し、東京・日本劇場(日劇)で上演。


“ショウ”という言葉が一般に浸透する


となっています。


「マーカス・ショウ」とはアメリカで地方巡業をしていた20人程度の小さなタブロイドショーの団体でした。


日本に行くため、二流・三流の芸人をかき集めて、63人と団員を増やした。


「マーカス・ショウ」のマネージャーが日劇に話しを持ち込んだのが始まりです。


当然、「マーカス・ショウ」はニューヨークで待機していたので、どんなショウをするかは分かりません。


情報は「マーカス・ショウ」のパンフレットのみでしたから


この話しを聞きつけた吉本興業の東京支社長・林弘高は、留学経験こそ無いのだが、西洋の情報に明るく、パンフレットを見て「マーカス・ショウ」が日本で当たると考えました。


ショウは歌あり、踊りあり、タップダンスあり、そして銀粉のヌードショウありです。


吉本興業では安来節が多当たりした実績がありました。


日本人には大人気になると言う確信に近いものがありました。


しかし、「マーカス・ショウ」を呼ぶのには前金1万円が必要でした。


林弘高は林正之助に話しをかけます。


林正之助は吉本せいを説得し、吉本興業から1万円を出させ東京の林弘高にゴーサインを出した。


さて、東京の日本劇場(日劇)は、前年の昭和812月に開場した東洋最大の劇場で、4000人を収容できることから「東洋一の4000人劇場」と呼ばれていました。


当時の大劇場です。


しかも、日本劇場(日劇)で開催した「マーカス・ショー」は、入場料が3円・2円・150銭と高額です。


映画館の入場料が50銭だった時代です。


アメリカから呼んだ劇団ですが寄せ集めです。


しかも大劇場で高い。


これでお客様は入ったのでしょうか?


93日オープン当日、日劇の前には「マーカス・ショウ」見たさのお客様で日劇の周りは人で溢れかえってしまいました。


1ヶ月の予定を大幅に超えて45日間を公演したが、全て満員お入りでした。


この時のようすを寺田寅彦が書いています。


マーカス・ショーとレビュー式教育

寺田寅彦


アメリカのレビュー団マーカス・ショーが日本劇場で開演して満都の人気を収集しているようであった。


日曜日の開演時刻にこの劇場の前を通って見ると大変な人の群が場前の鋪道を埋めて車道まではみ出している。


これだけの人数が一人一人これから切符を買って這入るのでは、全部が入場するまでに一体どのくらい時間が掛かるかちょっと見当がつかない。


人ごとながら気になった。


後に待っている人のことなどはまるで考えないで、自分さえ切符を買ってしまえばそれでいいという紳士淑女達のことであるから、切符売子と色々押し問答をした上に、必ず大きな札を出しておつりを勘定させる、その上に押し合いへし合いお互いに運動を妨害するから、どうしても一人宛平均三十秒はかかるであろう。


それで、待っている人数がざっと五百人と見て全部が入場するまでには二百五十分、すなわち、四時間以上かかる。


これは大変である。


なんと日劇に入場するのに4時間以上かかったようです。


中でも注目を集めたのが、美人ダンサーのミス・ハッチャが全身に銀粉(銀色のドロ)を塗った「ブロンド・ビーナス」である。


当時は厳しい時代だったので、裸は禁止され、胸とヘソと腰は隠したのだが、全身に塗った銀粉(銀色のドロ)のおかげで、布で隠していることが分からず、全身のラインがハッキリと分かるので、男性を熱くさせて大いに好評を得た。


寺田寅彦は「金色の女」を次のように述べている。


呼び物の「金色の女」はなるほどどうしても血の通っている人間とは思われなくて、金属の彫像が動いているとしか思われない。


あんなものを全身に塗っては健康によくないであろうと思うとあまり好い気持はしなかった。


塗料が舞台の板に附くかと思って気をつけて二階から見ていたがそんな風には見えなかった。


吉本興業の「マーカス・ショウ」は大成功の興業だった。


吉本興業は前金1万円を出したが、日本劇場と「マーカス・ショウ」から、それぞれ55%ずつの手数料を取り、9万円という莫大な利益を上げました。


吉本興業にとっては「マーカス・ショウ」は大成功の興業でした。


こうして「マーカス・ショウ」は日本の演芸界に大きな影響と数々の遺産を残しており、「マーカス・ショウ」によって日本に「ショウ」という言葉が定着したのでした。


吉本興業いわく


ショウほど素敵な商売はない


There's No Business Like Show Business




↑このページのトップヘ