ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 安来節

NHK連続ドラマ「わろてんか」安来節乙女組の舞台初お披露目。




安来節の「女踊り」着物の裾をまくって踊り、下の腰巻が見えてしまいます。


着物の下に着る腰巻は下着なので、当時の男性にとってはドキっとしてしまいました。


腰巻が見えてドキドキ。


ふくらはぎが見えてドキドキ。


この「ちらリズム」が安来節の大ブームを巻き起こしたようです。


エッサッサ安来節乙女組の4 H大作戦にて大成功でした。


彼女たちは大喜び。


島根から来た四人娘はドラマの中で頻繁に


「だんだん。」


「だんだん。」


( ありがとう。ありがとう。)


「だんだん」と言う言葉を使っていました。


非常に気になりました。


「だんだん」は島根の方言なのか?


「だんだん」は島根の言葉でありがとうです。


ところが私の実家、四国の宇和島にも「だんだん」と言う方言があります。


私たちも小さい頃から、宇和島の代表的な方言に「だんだん」があると教えられてきました。


「だんだん」は島根だけでなく愛媛や九州も使われているところがあります。


「だんだん」と言う方言はあちこちにある方言のようです。

「だんだん」ってな〜に?


以前、NHKのテレビやラジオで「気になる言葉」と言う番組がありました。


この番組の中で


「だんだん」とは 


おおきに ( 大いに )  だんだん ( 重ね重ね ) ありがとう


という京言葉が、語源だと解説がありました。

そのうち、まずありがとうがとれて


おおきにだんだん


になり、おおきにがとれて 


だんだん


になったというのです。


だんだん、だんだん、だんだんと重ねて使うほど感謝の念をあらわす、なかなかいい言葉です。


京の遊里でお客を送り出す時に使われていたそうです。


京言葉が地方に広がり方言として残っているのです。


平清盛の平安時代には京都が都で九州や四国、中国地方と盛んに交流がなされていました。


その当時に京都の文化が西日本地域に入っていったのでしょう。


なんとも日本の歴史を考えさせられる言葉ですね。


今日もプログを読んでいただいてありがとうございました。


だんだん。



NHK連続ドラマ「わろてんか」ではてんも乙女組の面々のことに心を砕いていました。




てんはドジョウ鍋を四人に振る舞い、四人の娘たちに島根の故郷の味を楽しませます。


その夕食の席で、ある騒動が起こりました。


踊り子の人・とわと、隼也の姿がどこにも見当たらなくなったのです。


と言うところで2017年の NHK連続ドラマ「わろてんか」も来年に持ち越しになりました。


来年に続くです。


来年もなんだか楽しみになりました。


ところで史実では安来節は島根の出雲から大阪、東京と一大ブームを巻き起こしていたのです。


安来節は大阪から東京へ


現在、安来節は郷土芸能としての側面が強く打ち出されていますが、大和家八千代 ( 来間おめの )が出雲から全国的な巡業がなされました。


大正期には吉本興業の林正之助が大阪で仕掛け安来節は大ブームとなります。


寄席では早く正之助の仕掛けた諸芸バラエティ路線の花形として当初扱われ、安来節と万歳のコラボで寄席は活況を呈します。


大阪のブームを見た根岸吉之助は1922年( 大正11年) 6月、それまで軽演劇を出していた東京浅草公園六区・常盤座東京に安来節をかけた。


その好評を見た興行師大森玉木により玉木座などで大ブームを起こし、時に遊楽館、松竹座、大東京、十二階劇場、日本館、木馬座で公演され(地元から一座が多くやってきた)、それゆえ浅草では必ずどこかで安来節がかかっているといわれた。大和家三姉妹が1923 年( 大正 12 )大東京と十二階劇場を掛け持ち出演し、そのわずか 200 メートルの距離を走って間に合わせようとしたが、人出の多さに一時間もかかったという。


独特の田舎っぽさが受けて、大正期には東京・大阪の日本の二大都市で安来節はもてはやされたのでした


大正から昭和初期の演芸界において、安来節は多大な影響を残しています。


ほんと安来節がそんな一大ブームを引き起こしていたとは現代ではとうてい想像もできません。




( 江戸川乱歩 )


■  安来節のどこがそんなに魅力的なのか


大正15年小説家、江戸川乱歩は「浅草趣味」の中でこう述べたいる。


僕にとって、東京は魅力は銀座よりも浅草にある。


浅草ゆえの東京住まいといってもいいかも知れない。


尤も、活動写真の中心が浅草を離れた形で、その上『プロテア』時代の魅力ある絵看板も禁ぜられているので、やや昔日の俤を失ったが、それにしても、やっぱり浅草は浅草である。


江川玉乗り一座のなくなったのは淋しいが、時々小屋掛けのサーカスも来るし『花やしき』には昔ながらのダーク人形、山雀芸等をやっているし、平林、延原両兄が乗った木馬館もあるし、因みに、これには僕も乗ったし、最近では横溝正史君が乗って、大いに気をよくした由である。


また僕の大好物の安来節もあるし、そこへ時々は女角力なんて珍物も飛込んで来るのだ。」


「浮き世のことに飽き果てた僕達にとっては、刺激剤として探偵小説を摂ると同じ意味で、探偵小説以上の刺激物として、それらのいかものを求めるので、探偵小説も、例えば安来節も、少なくも僕にとっては、同じような刺激剤の一種に過ぎないのだ」


「僕達の通り言葉なんだが、あれの持つネジレ趣味である。ネジレというのはどこかの方言で、いやみと訳せばやや当る。いやみたっぷりなものを見ると、こう身体がネジレて来る。そのネジレを名詞に使ったのだ。我々は一応ネジレなるものを厭に思う。だがそのネジレさ加減があるレベルを越すと、今度はそれが言うに言われぬ魅力になる。」


「和製ジャズと言われている通り、小屋全体が一つの楽器であるが如き、圧倒的な、野蛮極まる、およそデリケートの正反対であるところの、あの不協和音楽の魅力である。」


江戸川乱歩はそうとうに安来節が大好きだったようである。


当時の人々にとっては出雲地方の安来節にかなりの衝撃を受けたようです。


それは現代の日本人が「よさこい節」「阿波踊り」に魅力を感じるのと同じように安来節にも同様な魅力を感じていたに違いないのだです。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では北村笑店の面々は歌子の店で四人の踊り子たちの歓迎会を開き、その席でてんは、四人は「安来節乙女組」と命名されます。


さあて、安来節四人娘は今後どんな活躍を見せるのか楽しみになって来ました。


ところで史実では安来節四人娘ならぬ三姉妹が安来節を全国に広めたと言う歴史があります。


安来節を全国に広めた大和家三姉妹。




大和家三姉妹


大和家八千代 (本名:来間おめの)は出雲大社の大通りに二軒あった置屋の大和家に入る。


芸者修行では毎日仕事の合間を縫って大社にお参りした。


八千代は「一座を作れ」と天の声を聞いた。16才の時だった。


姉春子19才、妹清子 12才、置屋の屋号を取り大和家三姉妹一座を設立した。


父竹蔵は10~13才の小娘を 78人スカウトしてきた。


八千代は役者中村千賀次夫婦を一座に引き入れた。


千賀次は百姓が食用にするドジョウを取る仕草を安来節の三味線に合わせて踊った。


女踊りは短い絣の着物に赤い腰巻き、たすきを掛けた前掛け姿の娘が男踊りと同じテンポで踊る、すると娘達の着物の裾が開いて白いももが見え色っぽさが売り物となった。


大正10 3月八千代は18才になっていた。


どこで聞きつけてきたのか、神戸の御影座座長の弟、平池が八千代の家に出向いた。


本格的に5日間の旗揚げ公演契約のためであった。


出雲地方から浪曲師、曲芸師、漫才師、手品師を集め座員38名は出雲今市駅から出発した。


一座が御影座に着くと平池から送られた。


「贈 美声会一行」


「贈 大和家八千代さん江」


などのが春風になびいていた。


舞台が開くと彼女たちの踊りの見事さに客はワーッときた。


興業は大成功に終わります。


この成功で気をよくした平池は九州巡業を計画した。


大和家八千代一座の巡業は太夫元(プロデューサー)平池、五厘屋(ツアーマネージャー、入場客一人につき五厘を得て地元の親分と話を付ける)大西、座長八千代で三位一体となって能力を発揮し、朝鮮、四国そして平池は女興行師吉本せいに「売」で八千代一座を一日いくらで値を付けさせて売り込んだ。


吉本せいは当時16軒の寄席を所有していた。


一座は大阪という都会の空気を吸い、さらに垢抜けした芸を生み出していた。




大阪巡業中8月に蝶印レコードで安来節を吹き込んだ。


現在ならメジャーデビューと言うところだろう。


この時、浅草常磐座の根岸吉之助から声が掛かった。


いよいよと言ってもとんとん拍子に東京進出、浅草六区は老若男女、家族連れで賑わっていた。


劇場のほとんどがヨーロッパをまねて造られていたので異国の夢世界に入ったようだった。


六区をくまなく歩いてみたが、安来節を公演している劇場は無かった。


六区での安来節興行は根岸興行にとっても大きな賭であったに違いない。


根岸吉之助「蓋を開けた途端、どっと押しかけた客はもの凄く、たちまち満員札止めの盛況。


入りきれない客は二回目、三回目の時まで待とうと数百人が劇場の前を二重三重に取り巻く状況だった。


安来節は大成功のうちに大正10 817 ~30日常磐座にかけられたが、民謡がかくまで大衆に迎え入れられるものかと驚きもし喜びもした。


大和家三姉妹一座で座員30名を一日二百円で買ったものである」(大卒初任給 50円)


都新聞には、「破天荒の大評判 美声会一行50名出演 人気沸騰」とある。


八千代はその後大正12年から昭和 5年まで大森玉木と組んで浅草安来節全盛時代を築きます。




しかし、安来節の全盛時代があったなんて全く知りませんでした。


ほんと何十年生きていようと知らないことが多いのに驚く毎日です。

NHK連続ドラマ「わろてんか」北村てんと藤吉は寄席に出演させる安来節の踊り手を見つけるため、滞在していた村の娘たちを集めて選考会を実施しました。




とわ、なつ、あや、そして都の四人が踊り子として選ばれました。


安来節乙女組は大後寿々花(おおごすずか)さん、鈴木球予(すずきたまよ)さん、畦田ひとみ(うねだひとみ)さん、辻凪子(つじなぎこ)さんです。




実際は吉本興行部、吉本せいの弟、林正之助が東京の浅草などで話題となっていたその安来節に注目し、本場の踊り手を吉本へスカウトしました。


大正11年(1922年)出雲で「手見せ」と称したオーディションを開催し、優れた踊り手たちを発掘しました。


現在のAKBやモーニング娘のオーディションが既にこのころ行われていたのです。


安来節の歴史


安来節の原形といわれる「七七七五調の節」は、元禄時代(1688 1704の頃)、安来地方の自然と素朴な人情の中で培われ、歌われていたといわれています。


江戸後期の天保年間(1830 1844)の頃になると、船による交流が盛んになり、北前船が出入りする安来港は、米や鉄の積み出し港として栄え、安来節も船頭たちに歌われていた諸国の民謡の影響を受け、徐々に成長。


特に、当時「おさん」という芸妓が創作したといわれる「さんこ節」が安来節とよく似た節回しだったと伝えられています。


そして大正時代になると、「渡部お糸」(当市の名誉市民)という芸達者な女性が、三味線の名人「富田徳之助」と共に一座を組み、全国巡業回った際、行く先々で大好評を博し、その結果として一介の地方民謡だった安来節を全国区の地位にまで押し上げる原動力に。


ついには、当時の芸能人の憧れの的であった東京鈴本亭の舞台に立ち、大衆芸を芸術の域にまで高めたのです。


お糸一座の活躍は止まるところを知らず、東京・大阪に安来節の上演専門館まで誕生させたかと思えば、朝鮮半島・台湾・中国東北地方にまで遠征。


日本だけではなくアジア各国にも安来節を広めていったのです。


大正時代に日本の芸能は海を渡ってアジア進出していたようです。


どじょうすくい踊りって男女で踊り方が違います。


各パートがあり、微妙に踊りが違うのも安来節のコミカルなところです。




どじょうすくい男踊り 


小川でドジョウをすくう様子を表現した「どじょうすくい踊り」。


踊り手は豆絞りの手ぬぐいを頭に、腰にはドジョウを入れるビクを付け、ザルを頭に乗せ、腰を振りながら登場。正面を向いてにっこりした顔には鼻に銭が・・・。鼻に銭をつけるのは、農民が殿様に納める野菜を食べてしまい侍に鼻をそがれたからという言い伝えも。ユーモアと人情味が特長です。




どじょうすくい女踊り


女踊りは姉さんかぶりに小ぶりのザルを手に持ち、二人一組でどじょうすくいの所作を舞踊的に踊ります。


歌の終わりには、一人は立ち姿で男とし、もう一人はしゃがんで女とし、決めるのがキメのポーズ。




銭太鼓


竹筒の中に穴のあいた銭を入れた銭太鼓は日本民族楽器の一種。


ジャグリングのように回したり、打ち付けたりして、銭のリズミカルな音と技で「安来節」を華やかに演出する名脇役です。




安来節は「女踊り」にありました。


安来節は島根県の安来地方に伝わる民謡で、ひょっとこ顔の踊り手による「どじょうすくい」が有名ですが、人気の最大の要因は「女踊り」でした。


着物の裾をからげて踊るお色気が大評判となったのです。


連続テレビ小説「わろてんか」では主人公てんの女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として描かれています。


ドラマでは上方の寄席の大半を手中に収めた北村笑店モデルは吉本興行部です。


しかし活動写真など新たな娯楽の前に落語主体の興行の劣勢は明らかになります。


そこで笑いの次の柱として目をつけたのが、「安来節」と「万歳」でした。


安来節は大正から昭和初期に全国で一大ブームが巻き起こり、とくに東京や大阪では専門館が誕生するほどの大人気となっていました。


安来節


安来節は島根県の安来地方に伝わる民謡で、ひょっとこ顔の踊り手による「どじょうすくい」が有名ですが、人気の最大の要因は「女踊り」でした。


着物の裾をからげて踊るお色気が大評判となったのです。


明治から大正時代に娘義太夫がアイドルとなったように、当時の日本では若い女性の色気に惚れてしまうオタク族、書生さんが多く存在したようです。


NHK連続ドラマ「わろてんか」では安来節乙女組として当時します。


安来節乙女組は大後寿々花(おおごすずか)さん、鈴木球予(すずきたまよ)さん、畦田ひとみ(うねだひとみ)さん、辻凪子(つじなぎこ)さんです。


全員可愛いですね。


これでは安来節がブームになったのもわかる気がします。


東京の浅草などで話題となっていたその安来節に注目し、本場の踊り手を吉本へスカウトしたのはドラマでは風太( 濱田岳 )。


風太の史実上のモデルは吉本せいの弟・林正之助でした。


林正之助は大正11年(1922年)出雲で「手見せ」と称したオーディションを開催し、優れた踊り手たちを発掘しました。


現在のAKBやモーニング娘のオーディションが既にこのころ行われていたようです。


後年、吉本興業の社長として多くの興行を手がけ、日本最大級の芸能事務所に育て上げた正之助の成功への第一歩でした。


吉本の寄席にかけられた安来節は、見事な踊りとも相まって諸芸の花形として人気を博したそうです。


そのブームは全国へ広がったが、正之助は「安来節の人気もいつかは尻すぼみ」と予見、さらに新しい寄席の芸を探し続けていた。


万歳


大正10年(1921)年、吉本興業部は大坂一の人気落語家桂春団治を南地花月の高座に上げ、寄席を沸かせていました。


ただ全体としての落語は退潮気味でした。


そこで、正之助が目をつけたのが「万歳」でした、


現在では「漫才」と表記するが、昭和初期までは「萬歳」「万歳」が一般的。


元々は新年などに小鼓などの音曲に合わせて踊る奉祝の民俗芸能で、江戸時代に「尾張万歳」「三河万歳」などが全国各地に興った。


明治に入ると言葉の掛け合いなどが加わって滑稽味が増し、江州万歳の音頭取りだった玉子屋円辰が明治30年代の後半から活躍して、笑いの部分を拡大させ、演芸の体裁を整えていました。


現代の二人がコンビでしゃべる漫才になるのはずっと後のことです。


安来節と万歳のコラボレーション


千日前三友倶楽部の興行では、大正から昭和にかけて安来節の合間に数組の万歳師が出演しました。


安来節ありの万歳ありのこのパラエティーにとんだ公演がお客には大ウケでした。


これは正之助のアイデアで大好評を博し、万歳師も急増する。


大正11年(1922年)には吉本所属の万歳師はわずか7組だったが、数年で200組以上にまで増えます。


今では安来節も万歳もどこが楽しいかわからない人の方が多いかも知れませんが、娯楽の少ない当時の時代では民衆にとっての最大の喜びだったようです。


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