ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 風太

NHK連続ドラマ「わろてんか」風太とトキの恋愛話しの素敵なシーン。


風太の3連発プロポーズ


「結婚してください。嫁さんにすなってください。一生そばにいてください」


その後で


「結婚したら俺の3歩後ろを歩け。飯には甘いもんを一品付けろ。それと、一番大事なことや。俺より、絶対長生きせえ」


なんとも風太らしい一言でした。


風太にしがみつくトキも可愛いかったですね。


濱田岳。徳永えりへプロポーズ3連発 『わ

ろてんか』節目の“前編”を振り返る


http://realsound.jp/movie/2018/01/post-150285_1.html


あれ、風太の後の一言はまるでさだまさしの関白宣言と同じでした。


関白宣言      byさだまさし


♬お前を嫁にもらう前に 言っておきたい事がある

かなりきびしい話もするが 俺の本音を聴いておけ

俺より先に寝てはいけない

俺より後に起きてもいけない

めしは上手く作れ いつもきれいでいろ

出来る範囲で構わないから

忘れてくれるな仕事も出来ない男に

家庭を守れるはずなどないってこと

お前にはお前にしか できないこともあるから

それ以外は口出しせず黙って俺についてこい


お前の親と俺の親と どちらも同じだ大切にしろ

姑小姑かしこくこなせ たやすいはずだ愛すればいい

人の陰口言うな聞くな

それからつまらぬシットはするな

俺は浮気はしない たぶんしないと思う

しないんじゃないかな ま、ちょっと覚悟はしておけ

幸福は二人で 育てるもので

どちらかが苦労して つくろうものではないはず

お前は俺の処へ 家を捨てて来るのだから

帰る場所は無いと思え これから俺がお前の家


子供が育って 年をとったら

俺より先に死んではいけない

例えばわずか一日でもいい

俺より早く逝ってはいけない

何もいらない俺の手を握り

涙のしずくふたつ以上こぼせ

お前のお陰でいい人生だったと

俺が言うから必ず言うから

忘れてくれるな 俺の愛する女は

愛する女は 生涯お前ひとり

忘れてくれるな 俺の愛する女は

愛する女は 生涯お前ただ一人♬


こんなに長いことを言ってはいませんが、まさに関白宣言のダイジェスト版でした。


お二人とも幸せに


きっと風太はそう言いながらトキの尻にしかれてしまうのでしょうね。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では風太とトキは想いを寄せ合いながらも二人の関係は一向に進展しません。


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なんだかいらいらしますね。


でも、風太とトキは今が恋愛で一番いい時期なのかもしれませんね。


昔は自由に恋愛が出来ず、お見合い結婚がほとんどだと聞きます。


大正時代に自由に恋愛できたのでしょうか?


ドラマの風太とトキみたいに全く自由だったんでしょうか?


大正時代の恋愛事情を調べてみました。


また、同時に今までのNHK連続ドラマはこの時代に集中しています。



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大正時代の恋愛事情


調べてみると、あらたいへんです。


まずは女性たちの貞操を巡る議論が活発に行われていました。


「あさが来た」平塚明( 大島優子 )こと平塚らいてう『新しい女』とは何だったのか。

http://keijidaz.blog.jp/archives/57373043.html


大正3年、雑誌『青鞜』を中心として貞操論争。


『女がパンのために体を売るのは是か非か?』


一人の女性のリアル体験の問いを発端として、『婦人公論』『平凡』など他の雑誌媒体にも飛び火し、女の純潔(貞操)を巡る議論は活発化しました。


「愛を中心とした男女の結合の間には、貞操といふやうなものは不必要だと思はれます。」


と訴える伊藤野枝


平塚らいてうは


「結婚前の婦人に向かって、道徳は何を要求して居ますか。


それは絶対的純潔則処女性といふことであります。


娘時代の名誉の総ては殆どこの一事にあるといっても過言ではないのですから、万一その処女を失った娘は、父母の憤怒、悲嘆はもとより、社会の嘲罵を一身に集めなければなりません。


それが息子の場合はどうでせう。


と、性規範のダブルスタンダードを嘆いた。


「愛があって結ばれることのどこが不道徳?」


という態度の伊藤野枝


平塚らいてう


「女に純潔が要求されるなら男にも」


という意見。


なんだか現代より超過激な意見の応酬です。


明治から大正にかけては、男が花柳界の遊びで性病に罹患したまま結婚して妻に移してしまい、不妊の原因となるといった困った事例が多発していました。


そんな背景も、女性による「男女とも結婚相手以外とのセックスはなし」思想に繋がっていたようです。


明治末期から大正には、恋愛をめぐる文化人の事件が数々ありました。


● 1909年( 明治42 ) 漱石の弟子の森田草平(既婚)と平塚らいてうの心中未遂事件。


『あさが来た』平塚らいてう( 平塚明 )は『わが生涯のシステムを貫徹す。』

http://keijidaz.blog.jp/archives/56863306.html


● 1912年( 大正1 ) 北原白秋の人妻松下俊子との不倫。


「あさが来た」北原白秋姦通罪で告訴される。犯罪から文化へ。

http://keijidaz.blog.jp/archives/53791580.html


● 1912年( 大正1 ) 与謝野鉄幹晶子の不倫(後に結婚)。


● 1916年( 大正5 ) 伊藤野枝とアナーキスト大杉栄と神近市子の三角関係。


● 1921年( 大正10 ) 炭坑王の妻の地位を投げ捨てて恋人と駆け落ちした柳原白蓮事件。


● 1923年( 大正12 ) 有島武郎と編集者波多野秋子の心中事件。


● 1924年( 大正13 )中原中也と小林秀雄と新劇女優長谷川康子の三角関係。


インテリがこぞって真面目に恋愛に取り組んだ時代。


起こる事件も派手なのです。


今の「不倫」「三角関係」「略奪愛」と現代の週刊誌を賑わしている全てが当時に全て発生し、新聞紙上で大論争を呼んだのでした。


ほんと現代の恋愛事情どころではありません。


こうした、それまでの規範に囚われない男女関係を「自由恋愛」と呼ひました。


一生一人の人だけに操を通さねばならないという縛りはなく、北村透谷の恋愛至上主義が「なし」としていた性関係も「あり」としました。


「あさが来た」あさの娘千代「小芝風花」と東柳啓介「工藤阿須加」二人の恋愛。

http://keijidaz.blog.jp/archives/55480650.html


まさに現代の恋愛感を作りあげたのもこの時でした。


「自由恋愛」は恋愛至上主義に乗っかっているように見えるが、至上主義のような禁欲性はなかったのです。


大正末期には「性愛論」が流行り、「職業婦人」が注目された大正デモクラシーのムードの中で、開放的な恋愛が文化系の一部の若い男女の間では共有されていたようです。


ドラマの風太とトキも文化系かどうかは知りませんが、自由恋愛うまくいくといいですね。

NHK連続ドラマ「わろてんか」大阪演芸会のトップに立つ大会社となった北村商店を率いるのは社長の藤吉。




てんは金庫番を預かる経理責任者を、風太はすべての寄席を取り仕切る総支配人となっていました。


風太( 濱田岳 )の史実上のモデルはてんのモデル吉本せいの弟、林正之助でした。


林正之助は風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていました。




林正之助の写真です。


確かに風貌はライオンみたいですね。


風太役の俳優、濱田岳と少し似てる感じもあります。


林正之助の名言がまたいいんです。


■  林正之助の名言


「世の中で、体の毒を消すことができるのは"薬と笑い"です。


体に効く"薬"と違って、心に効く"笑い"は副作用の危険もないから、エエこと尽くめですな。」 


人って笑っただけで元気になるんです。


毎日の生活で笑いがあるから生きていけるんです。


チャーリー・チャップリンも次のように言っています。


無駄な一日。


それは笑いのない日である


A day without laughter is a day wasted.


実際の林正之助はとても魅力的な人物だったようです。


林正之助はどんな人だったのか?


吉本の芸人、間寛平は林正之助に関して次のように述べています。


間寛平は24歳で就任した吉本新喜劇の座長時代にも林によく叱られた。


間寛平は70年代後半、なんば花月、京都花月劇場、うめだ花月(いずれも閉館)を回り回って約7年間休みなし。


とにかく忙しかった。


「休ましてほしい」と頼むと林正之助氏からは「一生休んでくれ」。


ギャラを上げてほしい」と訴えると、「芸人にギャラをやるぐらいなら、ドブに捨てるわ」と逆ギレされたこともあった。


「ホンマにドブに捨ててほしかったですわ。拾いにいくから


ただ、「アホ」「ボケ」「カス」という罵詈雑言を受けても、その裏側は芸人たちへの愛情に満ちあふれていた。


林は新喜劇の初回公演には必ず視察に訪れて、アドバイスをくれたことも1度や2度ではなかったと言います。


あの時代はタレントや漫才師も少なく、エエとこを見てきたと思います。


かつて、なんば花月の正月公演に1日約7000人の客を入れたこともある。


劇場内は超満員に膨れ上がり、揚げ句、舞台裏から客を出した。


それでも、劇場前では「(満杯で舞台は見えないかもしれないけど)はいれるよ~!」と呼び込みをやめることはない。


ハチャメチャがまかり通る時代であった。


林正之助の生きた時代ハチャメチャだったが楽しい時代だったんでしょうね。


そんな吉本も、「お笑いの総合商社」と呼ばれるまでに大きくなった。


寛平自身、もうすぐ芸歴45周年。先輩芸人は50周年を迎える西川きよし(66)や六代目桂文枝(69)ら数えるほどしかいなくなった。


お笑いも平成から次の時代へと変わっていくのでしょうか。


なんだか楽しみですね。


正之助の略歴


正之助(はやし しょうのすけ)


( 1899 123 - 19914 24


吉本興業元会長・社長。


興行師、芸能プロモーター。


風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。


経歴・人物 興行師として 兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。


米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。


姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。


弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。


実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。


1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、 19歳で総監督となった。


1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。


1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い、会長も兼務した。


1963年に体調を崩し、大阪大学医学部附属病院に入院、持病の糖尿病と膀胱の疾患と診断され、やむを得ず社長から一旦退き、弟の弘高に譲る。


19944 24日死去。


享年93歳。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では風太 ( 濱田岳 )が総勢150人の芸人さんたち引き連れて北村笑店にやって来ました。




風太くんの目的はただ一つ、芸人さんたちを救うためだけにありました。


芸人さんのためだけに風太くんは北村笑店に芸人全員を雇ってくれるようにお願いします。


藤吉とてんは喜びますが、寺ギンは借金があるので好きにはさせないといいます。


そうすると、てんがお金をてんが立て替えるのです。


てんは、コツコツと貯めていたへそくりを支払うのでした。

 

なんて言う、風太くんの優しさ。


なんて言う、てんのきっぷのよさ。


てんは「芸人は家族と一緒です。」と寺ギンに対して言い放つのでした。


涙!涙!


ほんと、感動のシーンでした。


実際はどうだったんだろう?


風太くんの実際の史実のモデルは吉本せいの弟、林正之助です。


てんの実際の史実のモデルはご存知吉本興業の吉本せいです。


風太くんとてんのモデルは実際はどんな人物だったんでしょうか?




林正之助は芸人に優しい人でした。


吉本せいのお弟、林正之助もNHK連続ドラマ「わろてんか」の風太 ( 濱田岳 )くんと同じように芸人に優しい人でした。


林正之助のエピソードより


林正之助は

 

「芸人は借金してでも、ええもん着なあかん」


よく芸人たちにこう言うのでした。


林正之助は芸人に自分の選んだネクタイや服をプレゼントしたり、一流の店の寿司を振る舞ったりしたと言われています。


一流の衣食住に触れることにより、人はそれにふさわしい自分になりたいと思うようになる。


彼はそんな「引き寄せ」の考え方をよく理解し、一流芸人の卵である三流芸人たちに実践させていました。


ワンランク上の体験を得ることで自分を成長させる。


芸人にはいつも高みを目指して頑張るように教えていたのでした。




吉本せいは寄席の経営にすべてを賭けた。


なんばグランド花月(大阪)、神保町花月(東京)、よしもと祇園花月(京都)よく耳にする、吉本の運営する劇場が冠する「花月」という屋号。


実はそれには「花と咲くか、月と陰るか、すべてを賭ける」という吉本せいの覚悟が込められていました。


花(成功)か、月(失敗)か、どちらに転ぶか分からない寄席経営の世界ですべてを賭けて奮闘した彼女は大阪の寄席業界を制圧しました。


彼女のいざと言うときにすべてを賭けてるきっぷのよさが後に東京にも進出し、日本有数の芸能プロダクションへと成長させたのです。


吉本せいは芸人にはちゃんと自尊心を持たせてやった。

 

吉本せいの時代の定期券というものは、エリートであるサラリーマンや学生だけが持つことの許される一種のステータス・シンボルだった。


吉本は阪急電鉄と阪神電車の定期券を大量に買い込んで、寄席までの交通費として芸人に貸し与えていたと言います。


職業柄、日ごろ世間から軽視されていた芸人たちも、定期券を持つことで自尊心を保つことができたのでした。


芸人たちが社会の中での生きづらさから僅かでも解放されるようにという、彼女の思慮深さがうかがえます。

 

史実のモデルの人物像を見ていくとNHK連続ドラマ「わろてんか」てんと風太は史実のモデル吉本せいと林正之助の人物像に非常に近かったのではないかと思います。

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