ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:とと姉ちゃん > 小橋常子

『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公小橋常子( 高畑充希 )と花山伊佐次 ( 唐沢寿明 ) は職場で大勢の仲間に囲まれて商品試験に没頭しています。




ドラマとは言え、こんな職場だと毎日仕事するのが楽しいでしょうね。

主人公常子は星野と再会し、星野と子どもたちに囲まれて幸せそうです。

ついつい「 常子さん星野さんと結婚しちゃいなよ」と心の中で思ってしまいます。

ところで小橋常子のモデルになった大橋鎭子さんは一生結婚しなかったみたいです。

花山伊佐次のモデル、花森安治と大橋鎭子さんの創業当時のこんな話があります。

花森安治は大橋鎭子と一緒に会社を創業する時に鎭子に結婚願望があるかどうかを尋ねたのだそうです。

大橋鎭子は

「わたしは生涯、仕事を続け結婚はしない」

と返答されたそうです。

花森安治はもちろん結婚もしてましたし、随分一方的な質問です。
 
当時は女性は「結婚すれば家庭に入る」のが常識の社会。

花森安治は将来大橋鎭子が結婚して仕事は辞められては一緒に仕事など出来ないと考えました。
 
鎭子が「結婚する」と答えれ花森安治は一緒に創業することはしなかったのです。

花森安治は徹底的な人物、ライフワークとするべき仕事上のパートナーとして鎮子の能力を買いつつも、自分の同志として、同じように徹底した仕事をする覚悟がなければ一緒に仕事などしなかった。

花森安

「途中で止められては困る」

彼女の能力を評価すればこその質問でした。
 
大橋鎮子は生涯独身を貫きます。

鎭子も花森安治と同じように物事に徹底的にこだわるポリシーを持っていた。

花森安治に共感し、仕事をすることを選び姉妹と一緒に生活をすることを選択したのです。

小学校5年の時に父を亡くし、11歳で
喪主を務めてから、自分が家族を支えるためお金持ちになることを目指した鎮子にとって雑誌の編集は生きる手段であり、生きる目的です。

そこには喜びがあり、彼女にとっては家庭を持つ以上の魅力があった。

「暮らしの手帖」は美しく賢い女性をイメージさせる穏やかな印象の雑誌ですが、これを作ってきた人は、強い意志と情熱も持ち主でした。

大橋鎭子の人生は『とと姉ちゃん』の名前のごとく、自分の幸せよりは姉たちや会社のために捧げた人生でした。

と書いてきましたが、わたしとしてはドラマの常子さんには星野さんと結婚して欲しい。

男性も女性も仕事だけが人生ではないでしょう。

たしかに妹たちや会社のことを考えるのも良いでしょう、でもやっぱり家族を持って幸せな暮らしをすることの方がよいのではないでしょうか。

NHKが『とと姉ちゃん』は『暮らしの手帖』をモチーフとした架空のドラマだと主張してるのですから、ここは小橋常子さんと星野さんを結婚させてハッピーエンドのドラマ展開にしたらいかがなんでしょうか。





『とと姉ちゃん』主人公小橋常子と花山伊佐次(唐沢寿明)は誰にも作れない雑誌作りを始めます。






ただ、終戦後は国よりの配給は満足におこなわれなく、栄養失調はあたりまえで餓死者もでるありさまでした。

みんな生きていくのに必死で、食べていくのがやっとの生活をしいられていました。


『 皇族はマッカーサーの庇護でうまいものを食っている 』というのが世間の評判でした。

ほんとかどうかそれを書いてもらったらと花森さんが発案した。

照宮さま(東久邇成子さん)に白羽の矢を立てた。

花森さんご本人は、考えるが、原稿を頼みには絶対に行かない。

依頼に訪問するのは私たちばかりだった。

六本木の御殿に伺うと、原稿は書いたことがないと言う。

綴り方なら学習院で習ったと。綴り方をお願いした。

何回も行って、お子さんの相手をするようにもなった。

お子さんにお馬が来た、お馬が来たと言われるようにもなって、何とか原稿をいただいた。

しかし、花森さんは、これではうまいもの食べているかどうかわからない、書き直してもらえと言う。

そんなことはとても言えないので、枚数を間違えた、増やしてほしいとして、何とか続けて書いてもらった。

そして、出来上がったが、苦労したかいがあって、この号はよく売れ、『暮しの手帖』は一気にのぼり調子になった。





やりくりの記 東久邇 成子

日本は變つた。私たちもこれまでの生活を切り替えやうと此の燒跡の鳥居坂に歸つて來た。

やりくりの暮しがはじまつたのである。ここは居間の方が全部燒けて、ただ玄關と應接間だけが殘つたので、これを修理して、やつと、どうにか住めるやうにしたのだ。

だから押入れが一つもなく、台所と言つても、ただ流しだけで、配給のものなどを入れて置く戸棚もないので、洋服ダンスの下方にしまつたりしている始末である。

ともかく移ろう、あとは移つてから、だんだん工夫して便利に改造しようと思つてのことだつたけれど、何やかに追われて二年になるのにそのままになつている。

廣い品川の家に、昔ながらの習慣にひたつて兩親と共に暮す事は、ある意味では、樂だと言う事も出來る。

しかし生活そのものを思いきりつめて、むだな所を捨て、將來に大きな希望、明るい夢を抱いて、その實現へと、一歩一歩ふみしめて行くと思うと、こんな生活でも、いまの暮しを私はたのしいと思う。

咲き誇った花の美しさより、つぼみのふつくらした美しさがほしいと思うからである。

しかし、自分たちだけの力で、何もかもしなければならないとなると、本當に忙しく、又しつかりと計畫を立ててしないと、この家庭生活は實に複雑である。

お魚や肉や果物等時々自分で買いにもゆかなければならない。又、時には銀座あたりに、身の廻りの物等買いにゆく。

昔ならば安くてよいものが簡單に手に入つたけれど、今は高くて手が出ないし、ちよつと變つたものになると、あちこちを探しても間にあわないものもある。

三度の食事も配給もので、大體まかなうのだけれど、パンや粉ばかりの時があつたり、お芋が何日もつづいたり、時には玉蜀黍粉や高粱だつたりすると、どんな風にしたらよいか、中々頭をなやまされる。

大人はまだしも、育ちざかりの子供達の爲に、榮養がかたよらないやうにそして、おいしく頂ける様にいろいろ工夫しなければならないのだが、そんなわけで、いつの間にか、お粉の料理は私の自慢料理の一つになつてしまった。

衣服でも、子供たちのものは皆つくる事にした。子供のものは、すぐよごれるし破けたりする上に、どんどん伸びて小さくなつてしまう。

この間も、よそゆきのズボンを汚れついでに半日着せておいたら、夕方には、早速垣根にひつかけたとかで、大きなカギざきを作つて、私をがつかりさせてしまつた。

下の子は今伸び盛りだから、去年秋に作つて、いくらも着なかつた合着を春に出して見たら、丈も短く、首廻りもなおさなければ着られなくなつていた。

こんな風なので、布地を一々買つたり洋服屋に出していたのではとても大變だから、なるべく主人や私の着古しをなおしてこしらえるのである。

いろいろデザインを考えてすると、變つた可愛いい感じのものになり、これも又やりくり暮しのたのしみである。

子供たちもやはり、きれいな着物が
好きと見えて、新しく出來ると大喜びでそれを着る日を樂しみにしている。

たまの日曜日「今日はおばあ様の所へ行きましようね」と言うと、「僕も」「文ちやんも」と大はしやぎをはじめる。

「電車にのつて!」「こないだ作つたおべべを着て…」と言ひながら一人で
どんどん着物をきかえ、靴下をはいて靴をはいて、玄關からとび出す。

何時もぐずぐずして「まだですか、まだですか」とよく言われるのに、その早い事、そして私達の支度の出來るのを待ちこがれてゐるのである。

たとえ父母のお古にしろ、さつぱりときれいな着物を着るのがうれしく、
電車にのるのがうれしく、その上父母と一緒に手をとられて行くのがなおうれしい。

日頃、家庭の仕事に追われてしまつて「本を讀んで頂戴」と言われても「今忙しいからあとでね」と相手にしない事がよくあるのでかうして生々とした笑顔を見ると、苦勞して作つてやつて、ほんとによかつたと思い、私の心まで明るくはずんで來るのである。

話は違うが、子供といえば、四つになる文子が、いつの間にか小さな木箱を持つて來て、象牙の牛を出しているので、「おもちやにしてはだめよ」と言うと、「しまつておくね」と可愛い、くるくるした目をみはつて、いかにも惡かつたといふ顔をしながら一生懸命牛を入れてゐたが、蓋がどうしても出來ない。

そこで私は「しめて上げましよう」と言いながら箱を取りあげると、床の上にはまだ。つめ綿がころがつていた。

「あらこんなところにまだ綿があつたのね」と言うと、今までだまつて私のする事を見ていた文子は、その綿をかかえるなり大いそぎで、まるではずんだゴム毬のやうに遠くへかけていつてしまつた。

私は「綿が欲しかつたの」と思はず笑つたが文子は如何にも勝ち誇つた様に部屋の隅でにこにこしながら綿をちぎつて遊び出した。

純真無垢と言うか、そのあどけなさ、罪の無さ、牛ならぬ綿のほしい子供の心理にはほほえまずには居られない。子供には子供の世界がある。大人には想像も及ばない世界である。

私たちはつい大人の考へから、ああして、こうしてと指圖して美しい子供心を壓迫してしまう事が度々あるのでは
ないだろうか。

軟い寶石のような、そんな感じのする子供心を、私は出來るだけ注意ぶかく見守り、傷つけないように磨こうと思う。

それにつけても、この頃のおもちやの粗惡で、なんと高い事であろう。店頭にたつてもこれはと思つて買えるものは少い。

あれが欲しい、これが欲しいと子供達が言つても、高いばかりですぐこわれる様なものばかり。

數は澤山持ち合わせなくとも、質のよい、本當に子供の發達を助けるためのおもちやが容易に手に入るようになつたら、どんなによいであろう。

アメリカニズムを眞似るのではないけれど、アメリカの雑誌や家庭で見るいろいろのおもちやはよく子供の智力の發達に役立つよう工夫されていて本當に感心させられる。

しかし、夏の仕度が整つて、やれやれと思つている中に、さわやかな風のおとずれと共にすぐに秋になつてしまう。

もう今から冬の仕度にかからないと間にあわない。去年は私の古いウールの上衣をなおして、作つて見たが、ひと冬でだめになつてしまつた。

今年は何を作つてやろうかしら、毛織物は家での洗濯が大變だし、小さくなつてもうなおせないので、冬は毛糸のものが一番良いと思う。

子供の爲には暖く輕く柔かで着心地がよい。ミシンの様に手早くは出來ないが、私は小さい機械を使うので案外能率的である。

燒跡の大部分に畑もつくつた。毎日の食生活を少しでも助けるためである。夏の朝早く露をたたえて生き生きと輝いているトマト、なす、きうり等、もぎとつてくるのも嬉しかつた。

しかし、今年の春の頃は、畑に人蔘も、ほうれん草も、大根もなくて、毎日春菊だの、わけぎだのと同じきまつた野菜に、今日は何を使おうかしらと苦勞させられたものだ。そして結局高い端境期の野菜を買わなければならなかつた。

この苦い經驗を生かして、來年は多種類の野菜が少しづつでも、絶間なくとれる様に、殊に端境期に氣をつけて菜園計畫を立てようと思つている。

それにみどりばかりでもと、花を植えて、燒跡を少しは美しく豊かな感じにしようと思つて今年は一生懸命種をまいたり苗を植えたりした。

しかし生ひ茂る雑草は取つても取つても、すぐ後から生えて來る。家の中の仕事に忙しくて、二三日もうつちやつておくと、もう憎らしいくらい靑々と
伸びている。

それに肥料も少なかつたせいもあつて、殘念ながらこれは充分私の目を樂しませる事は出來なかつた。

この様に台所の事、畑の事、縫物の事等、朝から晩まで仕事に追はれがちの私である。庭の草花の一輪でも部屋の片隅に生けて、そのささやかな美を味いたいと思ひつつも、普段はそれすら忘れてしまつている。

けれども、これではいけないと思う。少しでも餘暇をつくり、世界に遅れないやうに敎養をたかめる事、美しい音樂をきいたり、よい映畫を見たり、或はいろいろの會合で多くの人に接すること、又しずかに讀書をして、ひろく社會の事を知り、新しい知識をとり入れる事をしなければと思う。

でも、どんな風にしたら其の日、其の日の家事が早く片付いて、かうしたゆつたりと落ちついた時間を持つ事が出來るだろうかと考えて見た。

この數年の忙しい毎日の暮しで、私が知つたのは、一つは仕事を敏速にする訓練と心掛けが必要だということである。これは要點をつかんで無駄をはぶき計畫的に仕事をすることだと思う。

忙しい忙しい、と思つていると、しつかりと、ものを考えて判斷したり、家庭の中の事柄の計畫を立てるやうな事もなくなつてしまう。

しかしよく考へて見ると目先の事ばかりにしがみついていたのでは、やりくりでも、すべて上手にゆかないのではないであろうか。

もう一つには、いつも整頓する習慣をつけることである。机の上には二、三日分の新聞がたまり、鉛筆が出し放しにしてあつたり、台所道具が、ちらばつていたりすると、能率が上がらないばかりでなく、何時の間にか子供のおもちやになつたり、なくなつたり、こわれたりするものもある。

何時も定めた所にしまう様にすれば、手順よく仕事がはかどるやうになる一つの手段だと思う。

世界は、社會はまさに混沌とした深い霧にとざされている様に見えるが、しかしその中にもある一點から、ほのぼのとした光がさしはじ始めているような氣がする。

私の生活も又様様なもやにさえぎられて、今もまだ幾多の困難をのりこえなければならないが、これは私たちだけではない、日本中みんな苦しいのだから、此の苦しさにたえてゆけば、きつと道はひらけると思うと、やりくり暮しのこの苦勞のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出來るのである。

(筆者は 天皇陛下第一皇女、かつての照宮さま、現在東久邇盛厚氏夫人)

天皇も皇室の皆様も、終戦後はみな慎ましい生活をされており、庶民とはなんらかわらない暮らしだった。

庶民は天皇も皇室も皆様、終戦後はご苦労なされているのだなと知り、自分たちも頑張らなければならないなと思ったのでした。



『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマでは主人公小橋常子は内務省宣伝部で気むづかしい人物花山伊佐次と出会う。







実在の人物で言うと大橋鎭子が運命の人、花森安治と出会うと言うことになる。


★大橋鎭子と花森安治の出会いは敗戦直後


実際には敗戦直後、花森安治のところに「読書新聞」編集長の田所太郎の紹介で大橋鎮子がたずねてきて、女性のための雑誌をつくるので手伝ってほしいと頼んだと言われている。


★贅沢は敵だのスローガンは花森安治が作ったのか?


日本中に贅沢は敵だのスローガンの旗が立てられました。







レタリングやデザインは花森安治らしい作りである。


花森安治は戦争中 、大政翼賛会に勤務していた。


戦争中はとうぜんハデな宣伝はできないし、やりようがない。そんな時期にあって花森が手がけたのは「ぜいたくは敵だ!」という「七・七禁止令」にもとづく国策標語の作成である。


有名な国策標語である「贅沢(ぜいたく)は敵だ」は、昭和15年に公布された「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のために作られたスローガン。






あの悪名高い「ぜいたくは敵だ!」の作者はどうやら花森安治らしい。


そんなウワサが、戦後まもないころから知人たちのあいだに流布していた。


いやちがうだろう、それどころか戦時中、花森がこの標語をもじって「ぜいたくは素敵だ」とからかっている現場にいあわせたことがあるぞと証言する者もいたし、作者であるのは事実だが、最初から意図して「敵」の語に「素敵」という逆説的ふくみを持たせたのだという説もあった。


例によって花森自身がなにも語ろうとしないので、ひそひそ話だけがひとり歩きしたそうである。


真実は花森安治が自分ではこのスローガンを作ったと語っていないため不明である。


★花森安治の大政翼賛会での仕事


ほんとう日本人は標語が好きである。標語で決められたことを守ろうとするのも日本人の特質であろう。


花森安治はそれをうまく利用した。


戦時体制下では軍への物資供給が優先されるため、配給制度によって国民は物足りない日常生活を強いられる。そのような状況を正当化するために「欲しがりません勝つまでは」という標語が生まれた。


まさしく「一億総動員」を象徴するフレーズだが、じつを言うと「欲しがりません勝つまでは」の作者は、賞金目当ての一般市民だった。真珠湾攻撃の翌年、昭和17年におこなわれた大手新聞社の懸賞金付き公募「国民決意の標語」に寄せられた32万通の中から選ばれたものだ。


「国民決意の標語」では、「欲しがりません勝つまでは」を含めた10作が入選した。 


さあ二年目も勝ち抜くぞ


たった今 笑って散った友もある


ここも戦場だ


頑張れ! 敵も必死だ


すべてを戦争へ


その手ゆるめば戦力にぶる


今日も決戦明日も決戦


理屈言う間に一仕事


「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ


 欲しがりません勝つまでは


息子が戦死しても悲しんではならない社会で、男の子が誕生すると親は戦場に送り出す覚悟をしなければならない世の中は、私たちの感覚からすると、異常です。







『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ花森安治、ドラマでは花山伊佐次を唐沢寿明はどのように演じるのでしょうか?この演技だけは絶対見逃せませんね。



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