NHK連続ドラマ『エール』ではコロンブスレコードの専属になったまでは良かったが、作曲家としてなかなか芽が出ない裕一。


書く曲は採用されず、採用されても鳴かず飛ばずで、ついに廿日市(古田新太)から「最後のチャンス」と宣告される。


作詞高梨一太郎、作曲古山裕一、歌手藤丸「船頭可愛いや」が売れなければ裕一はクビになり、契約金も一括返済しなければならない。しかし、周囲の期待も空しくレコードは一向に売れる気配がなかった。


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えっ、ドラマではこうなっちゃった。

唖然!

下駄屋の娘、藤丸(井上希美)モデルは音丸、作詞家高菜一太郎(ノゾエ征爾)モデル高橋掬太郎です。

実際に古関裕而は1935(昭和10)に高橋掬太郎とコンビを組んで「船頭可愛や」を作曲しています。

古関の歌謡曲は洗練され大衆の好むところとなり、古関メロディーは全国各地で、口ずさまれました。

『夢もぬれましょ 汐風 夜風」の歌詞と、歌謡曲としては珍しい長調の田舎節は、戦時下の庶民の心をつかみ、一世を風靡した。

「船頭可愛や」は入社5年目にして初の大ヒット曲となり、古関は責任を果たした喜びに安堵した。が事実なんです。

NHK連続ドラマ『エール』での脚本はそうなってしまった。

藤丸に音丸、高梨に高橋、歌の名前「船頭可愛いや」は実際と同一だが結果は正反対でした。どうなんでしょうかすこし脚本家さん脚本を書き過ぎなのではないかと思います。

「船頭可愛いや」を歌った下駄屋の娘、藤丸モデル音丸と言っても現在では知る人はいないと思います。

昭和の初期は「船頭可愛いや」「下田夜曲」 「博多夜船」など次々とヒット曲を連発し、テレビやラジオで人気No.1になってます。昭和のアイドル歌手、スターだったんです。

今から約85年前の話しです。そんな前でもないのに、もう誰もそんなスターを知る人はいません。

音丸の名前で記憶に残っている人がいるとすれば昭和の歌姫美空ひばりとのある事故の話しではないでしょうか。

音丸の前座として美空ひばりが高知の地方興行で歌っていました。その地方興行の途中、バス事故にあっています。

1947(昭和22)9月、音丸一行は高知県本山村を出発したバスは、大豊町の大杉駅に向かっていた。美空ひばり本名加藤和江。

以下は「美空ひばり」自伝より音丸

大杉の駅に近付いて坂道を下っていく時、バスの運転手がちょっとわき見をしていたところ、目の前にトラックが現れて、運転手は慌ててハンドルを切ったものの間に合わず、バスはトラックとぶつかってしまいました。バスはそのはずみで、左手の崖に横倒しになって落ちかかりましたが、木に引っ掛かって危うく崖下に落下せずにすみました。

『女の車掌さんは、バスの中から救い出した時にはすでに死んでいました。バスの一番後ろに座っていた和枝(美空ひばり)は、血だらけになって倒れていました。          

2人は近くの民家に運ばれ、その土間に寝かされて莚(むしろ)が掛けられようとした時、和枝の母(喜美枝)が、「まだ死んでいない!」と叫んで和枝の莚をはねのけました。

NHK連続ドラマ『エール』を観ていて、ふと、音丸と美空ひばりのこの事故のことを思い出してしまいました。

昭和初めの下駄屋の娘が大スターになり、時代を経て横浜の魚屋の娘美空ひばりに歌が引き継がれ、大衆の人々の心をとらえました。

それは、どんな西洋音楽の大歌手よりも、時代時代の大衆の心を掴まえるからであり、決して歌がうまいとかどうかではないのです

「船頭可愛い」をどんな世界的に有名な三浦環が歌ってもそれは決して大衆の心をとらえることは出来ず、ヒットすることはありません。

音丸もそうですし、美空ひばりもそうでした。その時代、その時代の大衆の中から生まれ育てられていくから大衆に支持されていくのです。

事実は脚本家や小説家が書くどんなドラマよりも面白く、事実だからこそ興味を引くのです。