NHK連続ドラマ『エール』では音楽学校の記念公演に向け「椿姫」の稽古がスタートした。千鶴子(小南満佑子)との争いの末に主役に選ばれた音(二階堂ふみ)は、双浦環(柴咲コウ)から自分に足りない技術を死ぬ気で磨くように激励される。


『エール』では音と双浦環のやりとりの場面がいろいろと演出されているが、実際には古関裕而の妻金子と三浦環の間にはこんなやりとりがあったのだろうか?


古関裕而と妻金子と三浦環、ベルトラメリ能子の深い絆


調べてみても、金子と三浦環の繋がりはほとんででてこなかった。また、帝国音楽学校と三浦環の繋がりもでてきていない。


ただ、古関裕而の妻金子は金子は帝国音楽学校に昭和5年(1930)年秋に入学していますが、長くは通わずに中退しています。


昭和6年(1931)年暮れに長女を出産していますので、多分そのころ中退したのではないかと思われます。


金子はその後ベルトラメリ能子(よしこ)の門下生となり、声楽の勉強を続けます。


このベルトラメリ能子は三浦環の妹弟子にあたります。


もしかすると、三浦環の紹介で彼女の教授を受けるようになったかは不明です。


ベルトラメリ能子も三浦環と同様、オペラ研究のため、イタリアに留学。ナポリに3年、ローマで国立音楽学校、オットリーノ・レスピーギに理論、ペリット・ド・ラピカらに声楽を学ぶ。

ローマでイタリアの詩人アントニオ・ベルトラメリと恋におち、1928(昭和3)結婚したが、1930(昭和5)死別。1931年(昭和6年)一時帰国して日本コロンビア専属歌手となりました。


古関裕而の妻金子、三浦環、ベルトラメリ能子、3人の女性はほんとたくましく、積極的。


古関裕而は昭和5年より日本コロンビア専属作曲家となっており、三浦環もコロンビアの専属歌手であった。もしかしたら、全て三浦環が古関裕而の世話をしてくれて金子に彼女を紹介してくれたのかも知れません。


1935(昭和10)古関は「船頭可愛や」を発表、大ヒットとなりましたが、この歌を聴いた環は「これは素晴らしい。ぜひ私もレコードに入れたい」と申し入れ、古関は大喜びで吹き込みに立ち合ったそうです。


古関裕而


(女史は)美声の上に、エクスプレッション(表現、言い回し)の巧妙なことは、さすがに世界的歌手だと思った。これは勿論青盤レコードになった」


自伝『鐘よ 鳴り響け』より


1939(昭和14)古関が「月のバルカローラ」を作曲して献呈したところ、これもまた女史が吹き込みレコードになりました。


三浦の歌った「月のバルカローラ」(作詞服部竜太郎)は「月影青い海の夜/渚のほとりに佇(たたず)めば」のロマンチックな歌詞で、その抒情性豊かなメロディーは、古関音楽の芸術歌曲の本領を遺憾なく発揮した名曲で、今なおソプラノ歌手たちがチャレンジし続ける芸術歌曲でもあります。


古関裕而と妻金子と三浦環は、親しい間柄でお付き合いされていたのではないかと想像させられます。


 青盤レコード 

 コロムビアは外国の著名な芸術家にだけ青いラベルを張り、流行歌と区別していました。「月のバルカロール」は後年、「月のバルカローラ」と改められました。バルカローラとはイタリア語の船唄の意味です。古関の青盤レコードは三浦環の歌った「船頭可愛や」と「月のバルカローラ」の2枚だけです。