NHK連続ドラマ『エール』古山裕一(窪田正孝)は早稲田の応援歌「紺碧の空」を作曲した翌年、昭和6年日米野球のため来日するアメリカ大リーガーを歓迎するための『日米野球行進曲」を作曲しています。
■「日米野球行進曲」
1931年(昭和6年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件)関東軍が進軍を開始。昭和12年に日中戦争が勃発(満州事変)します。
国内では右翼と軍部若手将校によるクーデターが起こり、軍部独裁体制への動きと、国民に対する新聞やラジオの戦争扇動が増えてきていました。
そんな中、国民の最大の楽しみが野球観戦。まだプロ野球チームもまだ発足しておらず、東京六大学野球は絶大な人気でした。
読売新聞が東京六大学野球対メジャーリーグ。アメリカから大リーグを呼ぶことになったのです。
今考えると大学生対メジャーじゃ話しにならないのではと思いますが、当時の日本人は大リーグを知らないし東京六大学しか知らないのですから、勝てるかもと期待しました。
読売新聞社がアメリカのプロ野球選抜チームを招聘した時、試合を盛り上げようと「紺碧の空」の作曲によって古関の名前は世間の注目することとなった読売新聞社から古関に「日米野球行進曲」の作曲依頼がなされました。
コロムビアでは早速歓迎の曲を、久米政雄作詞、古関裕而作曲で作成し、ここに「日米野球行進曲」が完成。
古関は日本で一つしかない交響楽団シンフォーニー・オーケストラを指揮して、当時日本随一の音楽の殿堂といわれた日比谷公会堂でその歓迎会が開かれています。
古関は当時を回顧して「叔父から燕尾服を借用したこの歓迎会は、好評を得て終了したが、叔父のエナメル・シューズが合わず足が痛んで困った。その後この曲が当時の音楽雑誌の特別付録としてスコアが添付された」述懐しています。
アメリカ野球選手たちは、フィラデルフィアのプロチームを主体とする当時の有名選手であったが、東京六大学の各チームと選抜混成チームが対戦しました。
11月7日の第1戦を皮切りに11月末日まで
計17試合が行われ日本は全敗に終わっています。
しかし、「スモーク・ボール」と言われたレフティ・グローブ投手の21球6連続三振が話題となったそうです。ルー・ゲーリックも登板しています。
日本チームは苅田久徳、水原茂、若林忠志などが活躍したり、大いに盛り上がったようです。
1934年も日米野球は開催され、ペーブルースが来日、横浜スタジアムでホームランを打っています。
野球の神様ベーブルースは横浜球場でホームランを打つたのか?ケイのblogより
野球の盛んな時代は、まだまだ平和を満喫できた時代のようです。