NHK朝のドラマ『エール』では音楽学校の記念公演「椿姫」の最終選考に、千鶴子(小南満佑子)と共に残った音(二階堂ふみ)だったが、環(柴咲コウ)から「今のままでは千鶴子に勝つのは難しいのでは」と言われました。


音が歌を通して何を伝えたいのかが何も伝わってこなかったというのだ。


どうせ自分には才能がないとやけになる音に、久志(山崎郁三郎)は伝えたいことを明確にするためには、まずは「椿姫」の世界を理解することだとアドバイスする。


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音モデルの古関裕而の妻金子も才能がなかったのだろうか?


息子古関正裕さんの話があるので、確認してみたいと思います。


古関裕而妻の金子さんの音楽の才能


古関正裕


「昭和5年の秋に、日本コロムビアからの招きで裕而と金子は上京し、暫くは、阿佐ヶ谷に住んでいた金子の長姉の家に居候して家を探し、コロムビアとの契約がまとまり裕而が正式にコロムビアの専属作曲家になった昭和6年に、世田谷代田に家を構えます。


当時近くに帝国音楽学校という音楽学校があり、金子はそこでベルトラメリ能子(よしこ)に師事し、本格的に声楽の勉強を始めます。当時一緒に声楽を勉強していた学生に、後に歌手になる伊藤久男がいたほか、ベルトラメリ能子の門下生には蘆原邦子もいました。


母の声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されていたようです。


ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、カヴァレリア・ルスティカーナとかトスカとかの舞台を踏んだようです。


戦後、私が生まれると、子育てに専念するために声楽を止めたので、私は母がよく歌っていたのは覚えていますが、その録音などは残念ながら残っていません。


子育てに専念(?)したせいか、私にとっては過干渉な過保護の母で、私はしょっちゅう反発してましたが、やがてうまく対処することを覚え、母の意見や小言は適当に、ハイハイと聞き流すようになり、母は私のことを素直な良い子だと思っていたようです。」


と語っています。


息子の話にもあるように古関金子さんの声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されていたようだとあります。


中山 晋平は、日本の作曲家で多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残した大作曲家。


僕らが知ってる楽曲で


「シャボン玉」「てるてる坊主」「あめふり」「雨降りお月」等


作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を含め中山の作品と判明しているものだけで1770曲存在するします。


一部の作品は現在も抒情歌または日本歌曲として歌い継がれています。


そんな大作曲家、中山晋平先生から才能を認められていたのですから古関金子さんの音楽の才能も古関裕而さんに劣らず他の人とは比較にならないほど抜き出ていたと思われます。

実際は音(二階堂ふみ)とモデル古関金子さを脚本家の描き方でかなり違ったものになっているようです。


金子さんカヴァレリア・ルスティカーナやトスカのオペラに出て活躍したようです。